縁は異なもの――ホンダ、インディ500参戦異聞
■It's Small World!! ――世間は狭い!!
昨日、ホンダのインディ500初優勝に関する文章を書きながら、ふと思い出したことがあった。それは、1968年にインディでホンダのF1マシンを走らせたロニー・バックナムにまつわる奇縁についてである。
1968年11月、ホンダのF1マシンRA-302がインディを走ったとき、テストを担当したロニー・バックナムは、この年、インディカーシリーズに参戦し、初の優勝も飾っていた。優勝した場所はミシガン・インターナショナル・スピードウェイ。1周2マイルのトリオーバル(三角形のオーバル)コースで、バンク角が深いことからインディよりもスピードが出ることでも知られている。
ミシガンでのインディカーレース開催は、この年、1968年が最初だった。つまりバックナムは、ミシガンでのインディカーレース初優勝者ということになる。
インディ500には、1968年から70年まで3年連続で出場しているが、いずれもリタイアに終わっていた。
バックナムは、Trans-AMシリーズをはじめとするスポーツカーレースへの出場をつづけたあと(1970年のルマン24時間レースではフェラーリ512Sで総合4位)、1992年、糖尿病で死亡する。56歳の若さだった。
彼の葬儀には(あるいは葬儀前に見舞ったときだったかもしれない)、第1期ホンダF1チーム監督の中村良夫氏も参列したという。このとき、すでにレースを始めていたバックナムの長男が、中村氏にサーキットでの走りを見てもらったらしい。まだ初心者向けフォーミュラカーに乗っていた頃だったが、いろいろアドバイスをもらったと、バックナムの長男ジェフ・バックナムは、1994年に中村良夫氏が死去したとき、コンピュサーブ(CompuServe。当時世界最大のパソコン通信ネット)の中にあったモータースポーツ・フォーラムの掲示板に寄せた追悼文の中で述べていた。
ジェフ・バックナムからぼくのところに、日本のF3に挑戦したいので、F3にエンジンを供給している無限の連絡先を教えてもらえないだろうか、といったメールが届き、住所を教えたこともあった。
そして、彼の長い文章が、再びモータースポーツ・フォーラムに掲載されたのは、1996年7月15日のことだった。しかも、その文章は、またもや追悼文だったのだ。
こんどの追悼文は、前日の7月14日、カナダのトロントで開催されたインディカーレースでクラッシュし、死亡したインディカードライバーのジェフ・クロスノフを偲んだものだった。
* * *
1988年から95年まで、日本のF3000、GT、スポーツプロトタイプカー、ツーリングカーの各シリーズに参戦し、1994年のルマン24時間レースでは、トヨタのマシンで、あわや優勝の大活躍を見せたジェフ・クロスノフは、96年、インディカーへの挑戦を開始したトヨタにスカウトされ、母国アメリカのCARTインディカーシリーズへの参戦を開始した。彼の夢はF1ドライバーになることだったが、インディカーのドライバーになったことは、まさぎれもなく母国アメリカへの凱旋だったはずである。
ジェフ・クロスノフは、小学生の頃からレーシングドライバーに憧れていたという。そのきっかけを作ったひとりが、元ホンダF1ドライバーのロニー・バックナムだったことを、ジェフ・バックナムは追悼文の中で明かしていた。
クロスノフが小学生のとき、幼稚園のときから同級生だったロニー・バックナムの長女が同じクラスにいた。確かスージーという名前だったと記憶しているが、ジェフ・バックナムの姉である。ジェフ・バックナムも、姉を通じてクロスノフのことを幼い頃から知っていたらしい。
アメリカでは、幼稚園や小学校で、国語(英語)の授業の一環として、「ショウ・アンド・テル(Show and Tell)」という名のミニスピーチを子供たちにやらせている。教師から与えられたテーマに即した品物、あるいは、自分のお気に入りの品物を級友たちに見せながら、その品について説明するというものだ。
ロニー・バックナムの長女は、自分に「ショウ・アンド・テル」の順番がまわってきたとき、父がホンダのF1に乗っていたときのヘルメットとレーシングスーツを見せながら、父の仕事について語ったらしい。その話に目を輝かせて聞き入っていたのが、クラスメイトのジェフ・クロスノフだったのだ。
クロスノフがレース好きになったのは、テレビのアニメ番組の影響もあったらしい。アニメの題名は「スピードレーサー(Speed Racer)」――日本の竜の子プロが製作した「マッハGoGoGo」のアメリカ版タイトルである。日本での放映開始は1967年4月。アメリカでは同年9月から放映されたらしい。クロスノフが3歳のときである。ひょっとして再放送などで見ていたのかもしれないが、クロスノフが「スピードレーサー」の大ファンだったのは間違いない。彼は日本でレースをしているとき、夏になると、よく「スピードレーサー」のTシャツを着ていたし、96年にCARTインディカー・シリーズにデビューした後、ドライバー仲間と結成したバンドも「マッハ5」と命名した。「マッハ5」は「スピードレーサー」の主人公・三船剛がドライブしていたレーシングカーの名前である。こんな彼の行動を見聞したときは、まさに「三つ子の魂」を実感したものだ。
そんなクロスノフが、クラスメイトの少女の父がF1ドライバーだったと知ったのだ。目を輝かさないほうが不思議というものだろう。ジェフ・バックナムが追悼文の中で語っていたのは、こんなクロスノフとロニー・バックナムとの奇縁についてだった。
クロスノフがナマのF1グランプリを見るのは1977年の春、12歳のときのことだった。この前年からロサンゼルス南方のロングビーチで開催されていたF1アメリカ西グランプリに、父親に連れられて出かけたのだと話していた。公道を封鎖した市街地コースで優勝したのはアメリカ人のマリオ・アンドレッティ(ロータス・フォード)。2位はニキ・ラウダ(フェラーリ)だった。クロスノフは、この後、毎年、ロングビーチのF1レースを観戦したという。ぼくも1978年と83年の2回、ロングビーチまでF1観戦に出かけていたから、ひょっとしたら、どこかですれちがっていたかもしれないね、などと話したこともある。
高校卒業後、UCLAに進んだクロスノフは、学業の間にレースを始め、フォーミュラ・マツダで好成績を残し、フォーミュラ・アトランティックにステップアップするが、学業優先だったため全戦には出場できず、スポット参戦にとどまった。1988年、22歳のとき、SCCAのトラックレースでシリーズ2位となるが、その走りが訪米中だったスピードスター・レーシング(全日本トップフォーミュラの名門チーム)のマネージャーの目に止まり、この年の全日本F3000シリーズ最終戦で、日本でのデビューを果たすことになる。
ぼくは、このデビュー戦の直後、コンピュサーブ・モータースポーツ・フォーラムのチャットでジェフ・クロスノフと知り合ったのがきっかけで、親しくなり、彼の日本でのレース結果を彼の家族に送る役目も引き受けるようになった。
CARTインディカー行きが決まったときも、すぐに連絡をくれ、96年の最終戦ラグナセカ(カリフォルニア州モントレー)に応援に出かける約束を交わしていた。その直前に、トロントで死亡してしまったのだ。そのときぼくは、「F1速報」というF1専門誌に『龍の伝説』というF1レース小説を連載中で、走りのシーンなどでわからないことがあると、すぐにクロスノフに宛ててSOSのメールを発信した。日本人の関係者に質問するよりも、アメリカにいるクロスノフに質問する方が、レスポンスも早く(返事は遅くとも半日以内には戻ってきた)、しかも回答の内容が的確だったからだ。おかげで、仕事のうえでも、どれだけ助かったかわからない。そして彼の死は、拙作『龍の伝説』のストーリーにも、影を落とすことになった。
* * *
「ロニー・バックナムの未亡人が、亡き夫の記念の品を集めて展示したいと言っているのだが、日本で、彼について書かれた本があったら、その本を集めて送ってくれないだろうか?」
ネットを通じて親しくなっていたアメリカ人レースジャーナリストから、こんなメールが届いたのは3年半ほど前のこと。「American Grand Prix Racing -- A Century of Drivers and Cars」という著作もあるジャーナリスト(以前は名子役としてテレビや映画で活躍していた人らしい)からの問い合わせに応じ、ぼくは、元ホンダF1チーム監督だった中村良夫氏の著作の大半を集め、カリフォルニアに送った。日本語で書かれているため文章は読めないだろうが、さいわいにして中村氏の著作には、中村氏の自筆になるマンガ風のイラストが多く掲載されている。本を受け取ったジャーナリストは、エンジニアでありながらユーモラスなカツーン(コママンガ)も描いていた中村氏の多才ぶりに、とても驚いていた。
このジャーナリストを通じて、ロニー・バックナム未亡人からも感謝の言葉が届いたが、やはり残念だったのは、日本語で書かれた中村氏の著作の内容が理解できないこと。ぼくに英語力があれば英訳してもいいのだが、ぼくが訳したら超訳になるのはまちがいない。
中村氏に走りを見てもらったジェフ・バックナムは、その後、自分のチームを立ち上げ、現在は、アメリカ・ルマン・シリーズのLMP2クラスに参戦中だ。
ジェフ・クロスノフは、事故死の後、遺族が、彼の名を冠した奨学基金をスタートさせ、毎年、1人の高校生に、大学進学資金を与えている。その資金は、レーシングドライバーやチームから提供されたレース関連グッズのオークションでの販売と、チャリティーゴルフ大会からの収益によってまかなわれている。
奨学生に選ばれた学生は、いまはCARTインディカーのレースが開催されているジェフ・クロスノフの思い出の地ロングビーチで、レースの期間中に開催されるブラックタイの贈呈式に臨み、ここで奨学金を受けるのだという(昨年、モータースポーツ大賞なるものを受賞したが、その賞金の一部を、この基金に寄付させていただいた)。
クロスノフは、トロントの市街地コースの脇に立つニレの木にマシンが激突して死亡したが、事故から5年後の2001年、この木が立ち枯れ病のために切り倒されることになった。そのニュースを知ったレースのオフィシャルたちが中心になって、切り株を残すための募金活動がおこなわれた。この事故では、カナダ人オフィシャルもひとり死亡していたが、集まった多額の寄付金で、クロスノフとオフィシャルの名を刻んだプレートが作られ、2002年のレース直前、事故現場に設置されたという。
そして、クロスノフが逝ってから、来月で、まる8年になる……。
コメント
>そんなクロスノフが、クラスメイトの少女の父がF1ドライバー
>だったと知ったのだ。目を輝かさないほうが不思議というものだろう。
このあたりのエピソードはいいですね。あと、マッハGoGoGoのエピソードも。
個人的には「恩讐の彼方に」の話よりも、今回の話の方が好きです。
投稿者: やまとたいし | 2004年06月05日 00:48
>そして、クロスノフが逝ってから、来月で、まる8年になる……。
もう、そんなに時間が経ってしまったか、と言う感じです。
日本でのジェフ・クロスノフ選手の活躍は、F3000シリーズやツーリングカー選手権が「F1人気」のあおりでTV放映され始めていたせいでよく観ていました。
インディでの事故の報道は映像を見たとき「え!まさか」と思ったのを良く覚えています。
どちらかといえば冷遇されている、日本のモータースポーツシーンで活躍された外国人選手を、メジャーなレース等で見かけるたびに「頑張れ!」と応援してしまいます。
投稿者: 通りすがり | 2004年06月30日 00:52
>通りすがりさん
そうなんですよね。光陰矢のごとしで、もう8年です。あの年、ラグナセカまで応援に行こうと考えていたのですが、その直前の事故でガックシ……でした。
ちょうど「F1速報」という雑誌に『龍の伝説』というF1レース小説を書いていたのですが、クロスノフの死がストーリーの展開にも影を落としたかたちになってしまいました。
日本で走っていたドライバーが、最近もF1で走ったりしていますが、デ・ラ・ロサもファーマンも長続きしませんでしたね。いまのイチオシは、ダレン・マニングです。昨年、CARTにデビューしたんですが、今年はIRLでチップ・ガナッシのチームに所属し、けっこう頑張っています。先日のテキサスでは、かなり危ない走りでハラハラでしたが。
いまのF1ドライバーで、日本のシリーズで走ったことがある選手といえば、ミハエル・シューマッハー(1回だけ)、ラルフ・シューマッハー(初代フォーミュラ・ニッポン・チャンピオン)と佐藤琢磨(全日本F3にちょびっと)くらいかな。
投稿者: すがやみつる | 2004年06月30日 01:20