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2004年12月01日
■『車椅子のビスコ』(渡辺やよい)
『車椅子のびすこ』(渡辺やよい/講談社/2004年12月刊/1,260円)........レディコミの女王の異名を持つマンガ家・渡辺やよいさんが書き下ろした愛犬介護エッセイ。サイトに「漫画原稿を守る会」に関連した日記を書かれていたとき、マンガ原稿の問題よりも、その合間に書かれるビスコという名の老犬の介護の様子のほうが気になっていたが、その後の愛犬の様子も交えて1冊の本になった。これまで書かれた本も面白かったが、この本が一番安心して読める。たぶん優しさに満ちているからだろう。
投稿者 msugaya : 05:28 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月03日
■『ご町内回覧板』(横山えいじ)
『ご町内回覧板』(横山えいじ/イーグルパブリシング/2004年12月刊/1,470円)........「小説現代」に長年連載されていたギャグマンガが1冊になった。編集者ができたてのホヤホヤの本を横山さんに手渡すところに居合わせて、一緒に1冊いただいてしまった。その場でサインしてもらったのは言うまでもない。うまい! おもしろい! うははは、わははは……と、つい笑ってしまう。
ああ、こんな凄いマンガ家と、こんど一緒に仕事させてもらうんだと思うと、ついキンチョー、キンチョー、蚊取り線香になってしまう(このくだらないギャグが、小生のうろたえぶりを象徴している)
一家に一冊『ご町内回覧板』! あなたの家にも、ぜひどうぞ!
(Amazon.co.jpでは、発送に時間がかかるようになっていますが、数日内に改善されるものと思われます)
投稿者 msugaya : 14:31 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月10日
■『仮面ライダー 第11号 Vol.11』
『仮面ライダー 第11号 Vol.11』(東映&石森プロ・監修/講談社/2004年12月刊/580円)........版元からのいただきもの。特集1の「原作者・石ノ森章太郎」に出ている石ノ森先生の写真、若いなあ……。いや、それよりも長男の丈君がウリふたつといっていいほどソックリで、これまたビックリ。
投稿者 msugaya : 19:15 | コメント (0) | トラックバック
■『ウルトラマン80宇宙大戦争―ザ☆ウルトラマン ウルトラセブン』
『ウルトラマン80宇宙大戦争―ザ☆ウルトラマン ウルトラセブン』(居村眞二/ミリオン出版/2004年10月刊/1,995円)........版元からのいただきもの。かつて小学館の「てれびくん」に連載された『ウルトラマン』シリーズの総集複刻版。最近は架空戦記小説のマンガ化で活躍する居村さんだが、ほんと、昔から絵が達者だったんだなあ……。
投稿者 msugaya : 19:17 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月18日
■『作家になるには』(永江朗)
『作家になるには』(永江朗/ぺりかん社/2004年12月刊/1,229円)........先日、『インタビュー術!』を読んだばかりの永江朗氏の最新刊。若年層向けの職業ガイドとして書かれているため、小説の書き方ではなく、小説家の世界を概観した入門書となっている。小説家の現実を垣間見るには、このような本を読むのもいいかもしれない。
投稿者 msugaya : 16:43 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月23日
■本の紹介は「日記」に戻します
こちらのBlogで本の紹介をつづけてきましたが、従来の日記の方が紹介の文章を書きやすいので、元にもどすことにしました。
本の紹介については日記のページをご覧ください。
投稿者 msugaya : 00:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年12月24日
■Who is Tonny?

投稿者 msugaya : 14:55 | コメント (2) | トラックバック
2004年12月25日
■石津嵐生誕記念パーティー
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![]() (石黒昇さんと) |
![]() (鈴木良武さんと) |
![]() (石津彩と) |
![]() (宮本昌孝君と) |
12月24日という世の中の家族持ちが、年内で一番わが家にいなければいけない日に、この世に生を受けた罪作りな(さっぱり仕事をしない)小説家・石津嵐(磐紀一郎)さんの誕生日を祝う会。もう20年以上もつづく年末恒例の会で、最近は、ここでしか会えない人も多いので、毎年、カミサンと連れだって出席。
アニメ監督の石黒昇さん、アニメ脚本家の鈴木良武さん、小説家の宮本昌孝、石津さんの長女で謎のロックシンガー山田まどか、石津さんの次女でテアトル・エコーの女優・石津彩(文化庁芸術祭演劇部門大賞受賞、おめでと~!)などと歓談しながら、腹一杯になるほど食べて飲む。ふう苦しい。
「SFクリスマス」というSF関連のイベントにゲストとして出席した宮本クンは、同じくゲストとして出席していたマンガ家・横山えいじさんが(新刊『ご町内回覧板』を出したばかり)、ぼくと組んで、とある入門書の仕事をすることになったと話したのを聞いて、「すがやさんほどわかりやすい入門書を書く人はいません!」と請け合ってくれたらしい。そういえば、ぼくの大人向け入門コミック第1弾となった『こんにちは! QCサークル』(プレジデント社)は、宮本クンが当社にいたとき、取材や構成を手伝ってもらったのだった。
宮本クンに恥ずかしい思いをさせないよう、頑張らなくては。
投稿者 msugaya : 04:11 | コメント (2) | トラックバック
2004年12月26日
■映画エッセイ「ぼくのシネマパラダイス」
一昨日、小説家・稲葉稔さんのblog に掲載されていたトニーの記事に反応して、とっさに、 こちらのblogに記事を書いてしまったのだが、 そうしたら稲葉さんが、今日のblogで、ぼくのことについて触れてくださった(お恥ずかしい)。
稲葉さんは、こちらが一昨日のblogに書いた母の映画館勤めのことに触れてくださっていたが、 その記事を読んで、そういえば……と思い出したのが、昨年、映画雑誌「キネマ旬報」の依頼で書いた原稿のこと。「映画と私」 というリレーエッセイのページがあり、そこに寄稿したのが以下の文章(雑誌掲載時のものに手を加えてあります)を再録してみます。
「キネマ旬報」連載リレー・エッセイ『映画と私』「ぼくのシネマパラダイス」
すがやみつる(マンガ家・小説家)
深夜、仕事場から家に帰ると、母が、灯明をともした神棚の下で、何ごとか一心不乱に祈っていた。理由を尋ねてみると、 「裕ちゃんが助かりますように」と祈っているのだという。裕ちゃんとは、もちろん石原裕次郎のことだ。
「裕ちゃんには、苦しかった頃に、どれだけ助けてもらったかわからないからねえ……」
母は、そういうと再び神棚に向かって手を合わせた。一九八一年五月、石原裕次郎が慶応病院で、 大動脈瘤の手術を受けた日の夜のことだった。* * *
ぼくが小学生だった頃、わが家は飲んだくれの父が行方知れずも同然の状態で、母ひとりが昼も夜も働きながら、母子ふたりの生計を支えていた。昼は化粧品と生命保険の外交、夜は日活系の映画館で切符のもぎりと清掃。それが母の仕事だった。 一九六〇年代前半、日活アクション映画が黄金時代を迎えていた頃のことだ。
母が映画館で働いていたおかげで、ぼくは顔パスで映画を見ることができた。貧困のため、 どこの家にもあるテレビもわが家にはなかったが、とくに不満もなかった。いつでも好きなときに映画が見られたからである。 近所の遊び仲間が子供向けテレビ番組の主題歌を歌っているとき、ぼくは、小林旭や赤木圭一郎の映画主題歌を口ずさんでは、 ちょっぴり大人びた気分になって、ひとり悦に入っていた。
まもなく映画館には人が来なくなった。テレビの普及が原因だった。市内に五館あった映画館も、あっというまに三館に減っていた。
さいわいなことに、母が勤めていた映画館は生き延びることができた。しかも潰れた映画館で上映されていた松竹や大映の作品までもが、 母が勤めていた映画館で上映されることになったのだ。日活アクションだけでなく、 勝新太郎や市川雷蔵の映画までもがタダで見られることになって、ぼくは大満足だった。小林旭の『渡り鳥』シリーズや石原裕次郎の 『零戦黒雲一家』、市川雷蔵の『忍びの者』といった〔お気に入りの映画〕がかかると、一週間の上映期間中、 一日も欠かさずに通いつめていた。
赤木圭一郎がゴーカートの事故で重体になったときは、容態を報じる新聞の記事に一喜一憂した。ついに息を引き取ったことを知ると、 自分の兄が死んだかのような悲しみに襲われたものだった。
母が勤めていた映画館は、隣町にも系列館があり、同じフィルムをバイクで運んでは、二館で使いまわしていた。ときには、 そのフィルム運びも手伝っていた。映写技師から上映が終わったばかりのフィルムが入ったケースを受け取ると、 これを片手で抱えてバイクの後席に飛び乗り、もう一方の手で運転席の兄ちゃんの腰にしがみつく。そのまま隣町の映画館まで突っ走り、 持参したフィルムと、あちらで上映の終わったフィルムを交換すると、また大急ぎで元の映画館にもどってくる。 こんなことが一日に何度も繰り返されるのだ。小学生のぼくにとっては、スリルたっぷりの冒険旅行だった。
あの「ニューシネマパラダイス」で、同じようなフィルム運びのシーンが出てきたとき、ふいに涙が込み上げ、止まらなくなったが、 それも主人公の少年と同じような体験をした思い出が、ふいに記憶の底からよみがえってきたせいだろう。
ぼくはのんきに映画漬けの生活を楽しんでいたが、母はちがっていた。飲んだくれの父がこしらえた借金の返済もあって、 昼夜を問わずに働いていたのだが、ときには、つらくてつらくて生きていることさえ嫌にになることもあったという。
「つらくなると、昼間っから映画館に出かけてね……」と、初めて母が打ち明けたのは、石原裕次郎の手術の成功を祈って、 神棚に手を合わせていた夜のことだった。
「暗い映画館の中なら涙を流しても、誰にも気づかれずにすむから……」
というのが、昼間から勤務先の映画館に出かけた理由だったらしい。
しかし、泣くつもりで出かけた映画館で座席につき、スクリーンに映る石原裕次郎の笑顔を見ていると、 不思議に泣いているのがバカらしくなったという。たしかに石原裕次郎は、いつもあけっぴろげに明るくて、不敵で豪快な笑顔を見せていた。
ぼくが映画を見はじめた頃の裕次郎は、すでに文芸路線やラブロマンスが中心になりはじめていた。 小学生のぼくには内容が理解できないところもあって、どちらかというとアクション主体の小林旭や赤木圭一郎をヒイキにしていたが、それでも裕次郎の白い歯を見せた底抜けに明るい笑顔は、いまでもすぐに思い出すことができる(ぼくは石原裕次郎と『あいつと私』や 『にくいあンちくしょう』で共演していた芦川いずみのファンでもあった)。
母も、あの笑顔を見ているうちに、つまらないことでくよくよしていることが、つまらなく思えてきたのにちがいない。それが 「裕ちゃんには、どれだけ助けてもらったかわからない」という言葉になったのだろう。* * *
母の顔が妙にほころんでいるのに気づいたのは、石原裕次郎の手術の日から四ヶ月ほどが過ぎた日の朝のことだった。 なんだか薄気味が悪くなって理由を問い質すと、
「ゆうべね、娘時代にもどって田舎で野良仕事をしていたわたしのところに、裕ちゃんが黒塗りの大きな自動車で現われて、 食事に誘ってくれる夢を見たのよ。モンペ姿で恥ずかしかったのに、そのままでいいといって……」
と母は白状し、ポッと頬を赤く染めた。
石原裕次郎の退院が報じられたのは、前日のことだった。裕次郎退院のニュースにテレビで接したことが、母に、 うれしい夢を見させることになったのだろう。このとき母は六十一歳。石原裕次郎より十五歳も年上だった。
六年後の一九八七年、石原裕次郎は五十二歳の若さで、あの世に向けて旅立った。それから十五年後の昨年、ぼくの母も八十二歳でこの世に別れを告げた。その後、ケーブルテレビで石原裕次郎の映画を見かけるたび、つい 「母は天国で裕ちゃんに食事をご馳走してもらえたのだろうか……?」などと考えるのがクセになっている。(了)
投稿者 msugaya : 13:08 | コメント (0) | トラックバック
■古いアルバムから
一昨日、会ったばかりの女優をしている石津彩のblogを覗いていたら、彼女が若かった頃(?)
のセクシー水着写真が掲載されていた。
そういえば、あの頃の写真がうちにもあったのを見つけて、たしかスキャンしてあったなあ……とパソコンの中を探したら、
出てきました、こんなのが。左が彩。右は姉ちゃんのパンクロッカー円(まどか)。あの頃は、みんな若かったなあ……。いつ撮影したのかは、
年齢がバレるのでナイショ。




