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2005年05月02日

■『仮面ライダー青春譜』プロローグ

※註:

 この文章は、以前『ぼくのマンガ青春期』のタイトルで、すがやみつるのWebサイトに掲載していた作品です。出版を前提に書き直していましたが、読んだ人の好みによって、「マンガ史も含めてほしい」「特撮関連の部分だけでいい」などと、あれこれ異なる意見が続出したため、執筆の手も止まった状態になっています。
 内容については、以前の原稿を全面改稿に近い状態で書き直していますが、筆者としては「1960年代から70年代前半にかけたマンガ史に、どのように関わってきたか」という記録にしたいと考えているのですが、お読みになったうえで、ご意見などいただけたら幸いです。
 なお、まだドラフト段階のため、表記や敬称の統一ができていません。その点、ご了承のうえ、お読みください。

 プロローグ

 一九九八年二月三日の午後、西武池袋線桜台駅南口駅前の喫茶店に、八人のマンガ家が集合した。
 集まったのは、永井豪、桜多吾作、ひおあきら、細井ゆうじ、山田ゴロ、成井紀郎、津原義明、そして、ぼく――すがやみつるの八名である。全員が、石ノ森章太郎先生のアシスタント経験者か、石ノ森作品の著作権管理をしていた石森プロの出身者だった。
 ひさしぶりに顔を合わせた人も多かったのだが、簡単に挨拶しただけで、みんな口が重かった。
「そろそろ行こうか……」
 最年長の永井さんにうながされ、ぼくたちはソファから腰をあげた。
 喫茶店を出ると、西武池袋線のガードに沿って練馬の方角に歩きだす。
 目的地は、桜台駅から徒歩十五分ほどのところにある石ノ森章太郎先生の自宅である。
 石ノ森先生は、六日前の一月二十八日、長い闘病生活の末に、御茶の水の病院で永い眠りについていた。
 先生の死去のニュースが報道されたのは、二日後の三十日になってからだった。家族だけの密葬にしてほしいという先生の遺志で、葬儀がすむまで亡くなったことが伏せられていたらしい。
 しかし、せめて線香くらい手向けさせていただきたい――と、元アシスタントと弟子筋のマンガ家がそろって交渉した結果、ようやく、ご遺族の許しが得られ、この日の訪問となったのだった。
 ガードに沿った細い道を進むと、すぐにバス通りに出る。西武池袋線がまだ高架ではなかった頃、ここには踏切があった。
 踏切の際には一軒のパチンコ店があり、二階は広い喫茶店になっていた。
 喫茶店の名は「ラタン」。店内の一角には石ノ森先生の専用席があった。先生は、毎日のようにこの席に坐り、ダンヒルの紫煙をくゆらせながらマンガのネームを入れていた。
 専用席の近くのテーブルには担当編集者がすわり、先生のネームが入るのを待っていた。ネームが一ページ入るたびに、受け取った原稿用紙にトレーシングペーパーを載せ、吹き出しのなかのセリフを写し取っていく。これが編集者の仕事だった。
 踏切の北側には交番があった。たくさんのファンやマンガ家志望者が、石ノ森先生の自宅への道をたずねた交番だ。あまりにも多くの若者が道をたずねるため、石ノ森先生が用意した専用地図まで置かれていた。
 そんなことを思い出しながらバス通りに沿った歩道を歩き、途中で脇の路地に入る。住宅街を縫うように走る曲がりくねった細い道は、石ノ森先生宅までの抜け道にもなっていた。
「このあたりの景色、あまり変わってないなあ……」
 住宅街の中に、ところどころ高くそびえる木々を見ながら永井さんがいった。
 この道は、三十年以上も前、石ノ森先生のところでアシスタントをしていた永井さんも、よく通った道なのだ。
 ぼくが初めて石ノ森先生のお宅に伺ったときに通ったのも、やはり、この道だった。
 あのとき一緒に歩いていたのは、いまも横を歩いているひおあきらだった。
 永井さんと初めて会い、細井ゆうじと知り合ったのも、同じ日――昭和四十二(一九六七)年三月二十五日のことだった……。

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■『仮面ライダー青春譜』 第1章 巨匠との遭遇(1)

●ニセ石森章太郎の正体

「きみが菅谷クン……?」
 改札口を出たとたん、学生服姿の男子高校生が声をかけてきた。
 学生服の襟元からは、派手なオレンジ色のタートルネックの襟がのぞき、整髪料でテカテカと光り固められた髪には、しっかりと櫛目がとおっている。いかにも都会の高校生――といったキザな姿で、静岡の田舎から出てきたばかりのぼくは、一瞬たじろいだ。
「は、はい……」
 うろたえながらもなんとか返事をすると、前に立つ高校生が、笑顔になって自己紹介した。
「ミュータント・プロの菅野です」
「ど、どうも。菅谷です」
 ペコリとお辞儀したぼくも、やはり学生服に身を包んでいた。
 昭和四十二(一九六七)年三月二十五日の正午前。高校一年の三学期が終わり、春休みに入ったばかりのときである。
 場所は、東京都練馬区の西武池袋線桜台駅。
 この駅の北口改札口前で、ぼくが待ち合わせをしていた男子高校生は、〈ミュータント・プロ〉というマンガ研究会の会長だった。
 名前は、菅野誠。年齢は、ぼくと同じ十六歳のはずなのに、いくぶん大人びて見えるのは、隙のない服装とヘアスタイルのせいにちがいない。同人誌では、本名のほかに、「ひおあきら」というキザなペンネームも使っていた。
 ぼくの学生服は従兄弟のおさがりで、情けないほどヨレヨレにくたびれていた。中学生のときまで長髪禁止だった関係で、髪も高校一年の終わりになって伸ばしはじめたばかり。どこから見ても、田舎の高校生であることが一目瞭然だった。
 東京に来るのは、小学六年生の修学旅行以来だった。つまり四年ぶりになる。前日のうちに上京したぼくは、亀戸の叔父の家で一泊させてもらったあと、国鉄総武線(当時)と地下鉄丸の内線、そして西武池袋線を乗り継いで、桜台駅までやってきたところだった。

 この日ぼくは、初対面となるマンガ研究会の仲間に、会の名誉会長である石森章太郎先生と、名誉副会長の松本零士、久松文雄両先生のお宅に案内してもらうことになっていた。持参した原稿を先生方に見てもらうためである。脇に抱えたスケッチブックには、原稿のほかに、サインをもらうための色紙も挟んでいた。
 石森先生のお宅は、住宅街の隙間をうねるように走る狭い道をたどった先にあった。桜台駅からは十五分くらいの距離である。
 途中、ところどころに畑がひろがり、雑木林のような木立も見える。
 ――これが武蔵野の面影なのかなあ?
 ぼくは、変なことを考えながら、菅野誠のあとをついていった。
 菅野もぼくも、スケッチブックを小脇に抱えていた。スケッチブックには、マンガの原稿が挟まっている。この頃の典型的なマンガ少年のスタイルだった。もう少し寒い季節で、首に長いマフラーでも巻いていたら、もっと完全だったろう。気分だけは『ジュン』(石森章太郎)や『漫画家残酷物語』(永島慎二)の主人公のつもりだったのだ。
 石森章太郎先生のお宅は、音楽大学の付属幼稚園の脇を抜け、少し坂を下った途中にあった。
 青々とした芝生が茂る庭には、小さいながらもプールまである。建てられて間もない石森邸は、台風が来るたびに窓を釘で打ちつけるようなボロ家に住んでいたぼくにとっては、まさに白亜の豪邸で、ハリウッドスターの住まいのように、ピカピカと光り輝いて見えた。
 先生は、まだおやすみで、庭先で奥さんが、長男の丈君をあやしていた。現在、俳優として活躍する丈君は、まだ一歳だった。
 そこに遅れて〈ミュータント・プロ〉のメンバー三人が到着した。副会長の細井雄二、田村仁、近藤雅人の三人である。
 菅野誠も含めた四人は、三鷹市内の中学の同級生だった。ぼくも影響を受けた石森章太郎先生の『マンガ家入門』に感化され、マンガ研究会「ミュータント・プロ」を結成したのが一年前のこと。肉筆回覧誌「墨汁三滴」も、すでに三号まで発行しているという。
「墨汁三滴」という会誌の名前は、石森章太郎先生が高校生のときに結成した〈東日本漫画研究会〉の肉筆回覧誌「墨汁一滴」の名前を受け継いだものだった。
 石森先生たちの〈東日本漫画研究会〉には、赤塚不二夫、高井研一郎、横田とくお氏などが参加し、「墨汁一滴」にも原稿を寄せていた。「墨汁一滴」の題名は、もちろん正岡子規の随筆集にあやかったものだ。
〈ミュータント・プロ〉の会誌が「墨汁二滴」にならなかったのは、〈東日本漫画研究会・女子部〉が、先に「墨汁二滴」の名前をつけた肉筆回覧誌を発行していたからである。
「墨汁二滴」は、西谷祥子、志賀公江、神奈幸子といった人気少女マンガ家を輩出した同人誌としても知られていた。また、志賀、神奈の両氏は、「墨汁三滴」の名誉会員として、会誌の会員一覧ページにも名前をつらねていた。
 庭先にいた奥さんの話によると、石森先生は、三時間ほど前にベッドに入ったばかりで、あと一時間ほど経たないと起きてこないという。それまでのあいだ、庭の草むしりをしてくれないかと奥さんに頼まれた。菅野をはじめとする〈ミュータント・プロ〉のメンバーは、全員が奥さんとも顔なじみで、気軽にOKした。とりわけ菅野は、奥さんにも「菅{かん}ちゃん」と呼ばれるほどで、もう長いあいだ通い詰めていることが窺われた。
 ぼくもすることがないので、菅野たちと一緒に芝生のあいだから顔を出している雑草をむしり取った。小さい頃から母と一緒に近所のお寺の草取りを手伝っていたので、これくらいの作業は苦にもならなかった。
 三十分ほどで草取りを終えると、奥さんがお礼にと、昼食をご馳走してくれることになった。そば屋のメニューを手渡され、なんでも好きなものを頼んでいいというのだ。
 ところが東京のそば屋のメニューときたら、カツ丼や天丼、親子丼といったドンブリものから、天ぷらにカレー、キツネにタヌキ、盛りに、かけに、ざる……と実に多彩。よく考えたら、ぼくは、そば屋に入った経験がなかった。
 豊富なメニューに目がくらんでしまい、何を頼んでいいのか迷い、うろたえた。
 ドンブリもののほかに、そばとうどんがある。天ぷらやカレー、キツネにタヌキあたりは、どんなものか知識があったが、どう考えてもわからないメニューがひとつだけあった。おかめうどん――である。ぼくの田舎では、こんなメニューを見たことがない。そこでぼくは好奇心を発揮し、おかめうどんを注文した。
 先生の奥さんは、
「若いんだらから、もっとボリュームのあるカツ丼か親子丼にでもすれば?」
 とおっしゃってくれたのだが、どうしても、おかめうどんの正体を確かめてみたかったのだ。
 そば屋から届いたおかめうどんは、カマボコや伊達巻き玉子が載っているだけで、どこがおかめなのか、さっぱりわからなかった。かまぼこや玉子焼き、しっぽくで、おかめの顔が形づくられていることを知ったのは、ずっとあとになってからのことだ。
 庭に面した居間で食事をご馳走になったあと、ぼくたちは先生の仕事部屋に向かった。菅野が勝手知ったる様子で案内してくれたのだ。
 仕事部屋の隅に置かれたソファに座って先生の起きてくるのを待っていると、先に三人ほどのアシスタントが仕事部屋に入ってきた。菅野の小声の説明によると、アシスタントたちは、奥にある仮眠室でやすんでいたらしい。
 アシスタントたちは、生あくびを噛み殺しながら、すぐに机の上に置かれていた原稿を手にとった。原稿には、人物にだけペンが入っている。人物のペンは、石森先生が入れたものだ。
 アシスタントたちは、鉛筆で背景の下絵を描いてはペンを入れ、吸い取り紙がわりのトイレットペーパーを原稿の上に転がしていく。墨汁が乾く時間を短縮させるためらしい。アシスタントたちが、わずかの時間を惜しんでいる様子が、見学しているぼくにもビンビンと伝わってきた。
 いつのまにか全身が熱くなっていた。生まれて初めてプロのマンガ家の仕事場を訪問し、アシスタントの仕事ぶりを目の当たりにしているのだ。その興奮と緊張に、身体が対応しきれていなかったらしい。
 ――もしかすると将来、ぼくもここで仕事することになるのかもしれない……。
 そんな夢想に酔いながらアシスタントの手元を見つめていると、突然、玄関のチャイムが鳴った。
 先生の机に一番ちかい席にいたアシスタントが、玄関に立っていくと、すぐに、
「サインください」
 という元気な男の子の声が聞こえきた。近所の小学生がサインをもらいにきたのだ。
「ちょっと待ってね」
 子供から色紙を預かってきたアシスタントは、自分の席にもどると、マジックインキを手にとった。
 ――え……?
 ぼくは目を丸くした。それも当然だろう。アシスタントは、ぼくたちの見ている前で、下絵もなしにサラサラと『サイボーグ009』の絵を描きあげると、石森章太郎というサインまで入れてしまったのだ。
 アシスタントは、その色紙を持って玄関に立っていった。
「はい」
 アシスタントの声が聞こえ、男の子の嬉しそうな感謝の言葉が聞こえてきた。
 子供が帰るとアシスタントは自分の席にもどり、何ごともなかったかのように仕事を再開した。
 ――これがプロのマンガ家の現実なのか……!
 唖然としているぼくに、横から菅野が声をかけてきた。
「いまのがチーフの永井さんだよ」
 いま『サイボーグ009』の色紙を描いて子供に渡したチーフアシスタントは、ほかのアシスタントよりも若そうに見えた。しかし、仕事の手は速く、さっさ、さっさと原稿を仕上げていく。しかも楽しげに背景のペン入れを進めていた。
 チーフアシスタントのフルネームは、永井清。この一年ほど後に、『目明かしポリ吉』というギャグマンガでデビューするが、そのときのペンネームは、永井豪――となっていた。

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2005年05月03日

■『仮面ライダー青春譜』 第1章 巨匠との遭遇(2)

●ペンの線がちがう!

「おっ、来てたのか」
 石森章太郎先生が仕事場に姿を見せたのは、正午を少しまわった時刻だった。
「おはようございます」
 菅野や細井たちは、すっかり顔なじみになっているようで、気軽に挨拶をかわしている。緊張しているのはぼくだけだった。
 石森先生は、後年、パーマをかけた長髪がトレードマークになったが、この頃は、スポーツ刈りにちかい短髪だった。
「新しい会員の菅谷君です」
 菅野に紹介され、あわててお辞儀したぼくは、スケッチブックに挟んできた色紙を差し出した。しかも二枚もだ。
「サ、サインしてください」
 口のなかがカラカラに乾いているために、声がうまく出てこない。
「ちょっと待ってな」
 石森先生は、色紙を受け取ると、仕事机に座り、墨汁をつけた筆でサラサラと『ジュン』を描き、『気ンなるあいつ★』のヒロインの絵を描いてくれた。
 さらに持参した原稿を出しかけると、これからネームを入れに桜台駅ちかくまで出かけるので、そこで見てくれるという。ぼくたちは、石森先生のあとについて桜台駅までもどることになった。

 石森先生が案内してくれたのは、桜台駅北口そばの小さな喫茶店だった。
 ぼくたち五人は、先生とは別のテーブルについた。なんでも好きなものを注文するようにという先生の言葉に甘え、ぼくはオレンジジュースを注文した。緊張で喉が渇ききっていたからだ。
「じゃ、原稿を見せてごらん」
 先生が、ぼくを向かいの席に呼んでくれた。
「お願いします」
 ぼくは、カチンカチンに硬くなりながら、スケッチブックのあいだから取り出したマンガの原稿を取り出した。
 マンガのタイトルは「シークレット・エィジェントマン」。題名どおりのスパイものだった。直前の冬休みに、〈ミュータント・プロ〉の新しい会誌用に描いたものだったが、その会誌は発行されずじまいとなり、宙に浮いてしまった原稿だった。
「ペンの線が汚いなあ……」
 石森先生は、パラリと原稿を見るなり、眉間にシワを寄せていった。
 自作マンガのペンの線が汚いことには、すでに気づいていた。といっても、その事実に気づいたのは、つい先ほど、石森先生の仕事部屋で、アシスタントが背景を描いている原稿を見たときのことだ。
 生まれて初めてマンガのナマ原稿を見たぼくは、まさに度肝を抜かれていた。
 ナマ原稿に引かれた線は、拡大サイズで描かれているにもかかわらず、細くきれいで、そして繊細だった。少年雑誌のザラ紙に印刷された線ばかり見ていたせいで、マンガの原稿が、こんなにもきれいな線で描かれているとは、想像さえもしていなかったのだ。
「ペンは少し使い古したくらいの方が使いやすい」
 そんなことが書かれたマンガ入門書も多かった。ぼくは、それを真に受け、わざわざ使い古しのペンをもらってきては、マンガを描くのに使っていたのだ。
 古いペンの仕入れ先は市役所だった。近所に住む市役所勤めの人に、使い古しのペンが欲しいと頼んでみると、山のように持ってきてくれたのだ。ボールペンもまだ普及していなかった頃で、役所の申請書類は、すべて、つけペンと青インクで書かれていた。
 市役所でも、使い古しのペン先が大量に出るため、捨て場所に困っていたという。そんなときに、ぼくの申し出があったため、喜んで持ってきてくれたものらしい。
 とはいえ使い古しのペン先は、先端がすり減り、変なクセがついていた。
 貸本劇画誌で得た情報によれば、平田弘史氏は、市販のペン先の先端をペンチで切断し、グラインダーと砥石で整形したオリジナルのペン先を使っているという。そこでぼくも平田氏のマネをして、古いペン先を砥石で研いでは使っていたのだ。
 もともとすり減ったペン先だから、引かれる線も当然のごとく太くなる。ザラ紙に印刷され、線が滲んだ状態のマンガしか見たことのないぼくは、ナマ原稿も同じような汚い線で描かれているものと思い込んでいたのである。
「菅野。お前の原稿を見せてやったら?」
 石森先生が、菅野のスケッチブックに視線を向けながらいった。そこに原稿が挟まっていることをお見とおしだったらしい。
「はい」
 菅野がニヤニヤと笑いながら、スケッチブックのあいだに挟まれていた原稿を取り出した。
 菅野の原稿を見て、ぼくはショックを受けた。模造紙の原稿用紙に描かれていたのは、空母から発艦するジェット機の絵だった。ぼくもメカ好きだったので、その機体がグラマンA6「イントルーダー」だということは、すぐにわかった。当時、泥沼状態になっていたベトナム戦争でも使われていた二人乗りのジェット攻撃機だった。
 攻撃機の機体のカーブは、まるで製図器具を使って引かれたかのようにシャープで、しかも背景の空気の流れまでもが、微細な線で描かれていた(菅野が工業専門学校の生徒で、マンガを描くのにドラフターという製図器具や、雲形定規まで活用していたことは後になって知った)。
 昨年(一九六六年)の夏、「ボーイズライフ」(小学館)という男子向けティーン雑誌の読者欄で、マンガ研究会〈ミュータント・プロ〉の会員募集告知を見つけたぼくは、「名誉会長・石森章太郎」の文字に惹かれ、入会審査用のカットを二点描いて会長の菅野誠のところに送付した。
 一点は旧海軍の局地戦闘機「雷電」、もう一点は、藤子不二雄タッチを真似たギャグマンガのキャラクターを描いたものだった。
 一ヶ月もたたないうちに、送ったカットがもどってきた。同封された手紙には、「テクニックがなっていない。レタリングがヘタ」という酷評が書かれていた。会長の菅野が書いた文章だった。
 小学生六年生のときに『マンガのかきかた』(手塚治虫・監修/秋田書店)を読んだのがきっかけで、ペンと墨汁を使ってマンガを描きはじめ、中学三年生のときに遭遇した『マンガ家入門』(石森章太郎/秋田書店)で、マンガ家になろうと決意して以来、ほとんど独学でマンガを描きつづけてきた。
 同じ趣味を持つ友人もいたが、高校生になってまでマンガを描いているのは、ぼくだけになっていた。
 ぼくのマンガを見た友人や近所の人たちは、誰もが「うまいなあ」と感心してくれた。おかげで自作マンガのレベルは、かなり高いところにあるのではないかと思い込むようになっていたのだ。
 その自信が、菅野からの手紙で打ち砕かれてしまったのだ。いや、正直に告白すると、この段階では、酷評の手紙を送ってきた菅野のことを「ちょっとナマイキな奴」と考えていたところもあった。それは菅野の絵を見ていなかったし、プロのナマ原稿も目にしていなかったからである。
〈ミュータント・プロ〉には、いちど入会を断られたが、その後、補欠のようなかたちで入会を許され、この日の上京となったのだ。
 ところが石森先生の仕事場でプロのナマ原稿を見て、またここで菅野の緻密な絵を見せられたことで、それまでの自信はガラガラと音を立てて崩れ落ちていた。いくらマンガがうまいつもりでいても、やはり井の中の蛙にすぎなかったのだ。
「描けば描くだけうまくなるから、あきらめずに頑張ンな」
 ぼくの落ち込む様子を察したのか、石森先生は、そういって激励してくれた。
 石森先生からは、五年後にも同じ言葉をかけられることになるのだが、このとき、そんなことがわかろうはずがない。ぼくたちは、先生のネーム入れの邪魔をしないよう、早々に喫茶店をあとにした。

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2005年05月04日

■『仮面ライダー青春譜』 第1章 巨匠との遭遇(3)

●松本零士氏の不遇時代

 喫茶店を出たぼくたちは、桜台駅で西武池袋線の電車に乗った。行き先は石神井公園。「しゃくじいこうえん」と読むらしい。桜台からは四つ先の駅だった。
 石神井公園駅でバスに乗り、東映撮影所前で下車すると、撮影所の脇の細い道をまっすぐに北に向かって歩く。
 次に訪問する松本零士先生のお宅は、あちこちに畑が広がる練馬区大泉学園町の一角に建っていた。
 やはり新築の大きな家で、案内された応接間には暖炉まであった。
 ソファに座って待っていると、上品でにこやかな笑みを浮かべた女性が、紅茶を運んできてくれた。エプロンをつけているが、お手伝いさんではなさそうだ。
 紅茶の受け皿には、スプーンと一緒に、輪切りになったレモンが載っていた。このレモンが何をするものなのか、ぼくには見当がつかなかった。わが家でも紅茶を飲むことはあったが、入れるのは砂糖だけだったからだ。
「冷めないうちにどうぞ」
 紅茶を出し終えた女性が、そう言い置いて応接間から出ていくと、ぼくの耳元で菅野がささやいた。
「牧先生だよ」
「え? もしかして松本先生の奥さんの牧美也子先生……?」

「そう」
 菅野は、当然といった顔でうなずくと、紅茶が入ったカップのなかに、受け皿に添えられていた輪切りのレモンをスプーンに載せて入れた。
 ぼくも見よう見まねでスプーンを使ってレモンをすくいあげた。この瞬間は、あの『マキの口笛』の作者でもある牧先生に会えた感激よりも、輪切りになったレモンを落とさないようにカップに入れることに必死になっていた。
 紅茶にレモンを入れて飲む習慣があることを知ったのは、恥ずかしながら、このときが初めてだった。田舎育ちのぼくは、喫茶店というものに入ったこともなく、そのためレモンティーの存在も知らなかったのだ。
 数分後、
「やあ、待たせてごめん」
 といいながら松本先生が入ってきた。
 正面のソファに腰をおろした先生は、ぼくの前のティーカップに目をとめた。
「早くレモンを出したほうがいいよ。紅茶の色が薄くなってしまうから」
 その言葉に驚いて、両隣に座る菅野や細井たちのカップを見ると、いつのまにかレモンが出され、受け皿の上に置かれたスプーンの上に載っている。レモンを入れっぱなしにしていたのは、ぼくだけだった。ぼくは、あわててスプーンでレモンのサルベージ作業に取りかかった。
 レモンを引きあげるのももどかしく、松本先生にもサインをお願いした。しかも、またも図々しく二枚の色紙を差し出したのだ。
「何がいいの?」
 ぼくが出した色紙を手にして松本先生が訊いた。ぼくは、すかさず答えた。
「零戦をお願いします!」
「え?」
 松本先生が、一瞬、目を丸くしたが、その顔は、すぐに微笑みに変った。どうやらこちらが年季の入った松本ファンであることに気づいてくださったらしい。
「長いあいだマンガ家をしてるけど、零戦を描いてほしいといわれたのは初めてだなあ……」
 松本先生は、照れ笑いしながら青の硬質色鉛筆で色紙に当たりをとると、黒のマジックインクで下絵をなぞりはじめた。
松本零士先生に描いてもらった「零戦」の色紙「最近、こういうマンガの注文が少なくなっちゃってねえ……」
 突然、松本先生の口調が寂しげなものに変わった。「注文が来るのは犬っころのマンガばかりなんだよなあ……」
 当時の松本先生は、少年マンガは松本あきらのペンネームで執筆し、奥さまの牧美也子先生と少女マンガを合作するときのみ、松本零士の名前をつかっていた。少年マンガでは、『電光オズマ』『潜水艦スーパー99』『ララミー牧場』といったSFマンガやアクションマンガを描いていたが、ぼくが惹かれたのは、誰よりも精細なメカニズムの描写だった。
 松本先生のメカは、潜水艦から拳銃に至るまで、どれもこれもがリアルで、しかもカッコよくデフォルメされていた。小学生のときに、そんな松本マンガのメカ描写にしびれたのが、自分でマンガを描きはじめるきっかけでもあったのだ。
 とりわけ航空戦記マンガに描かれた零戦やグラマンの絵の精緻さは、他のマンガ家の追随を許さなかった。旧日本陸海軍の航空機については、元陸軍航空隊整備兵出身の、わちさんぺい氏の絵も素晴らしかったが、松本先生の絵は、それにスマートさが加わっていた。わちマンガのメカが、リアルではあっても、どこかのんびりとしているのに対し、松本マンガに登場するメカは、どこまでもスマートでクールだった。そこに新しさがあったのだ。
 小学生のとき、松本先生の戦記マンガに遭遇したのがきっかけでマンガを描くようになったぼくにとって、色紙に零戦の絵を描いてもらうのは、悲願のひとつでもでもあった。
 しかし、「冒険王」に連載されていた『潜水艦スーパー99』(一九六四~六五年)あたりを最後に、少年マンガからは遠ざかっていた。「犬っころのマンガ」と自嘲気味にいわれたのは、『その名はテス』などの松本零士名義で描かれた少女向けの動物マンガが仕事の中心になっていたからだろう。奥さまの牧美也子先生と合作した動物マンガも多かった。
「またメカの出てくるマンガを描けたらいいんだけどねえ……」
 松本先生は、ブツブツとつぶやきながら二枚目の色紙には、犬っころならぬ子猫の絵を描いてくれた。少女雑誌では、子犬や子猫の登場する哀しいマンガが人気を集めていた頃で、松本先生も、その人気に便乗するような作品を描いていた。松本先生にとっては不遇の時代だったのだ。
松本零士先生に批評してもらった自作マンガ。鉛筆線は、「こうすれば飛行機がカッコよく見える」と松本先生が描いてくれたもの。
 松本先生が色紙を描き終わるのを待って、ぼくは自作マンガの原稿を取り出した。先ほど石森章太郎先生にも見てもらった原稿だ。石森先生には、時間がないこともあってペンタッチの批評しかしてもらえなかったが、松本先生は、鉛筆を取り出して、具体的なチェックをしてくれた。
 最初に見たのは当然ながらトビラだった。そこには「シークレット・エィジエントマン」という恥ずかしいタイトルが描かれている。
「ほお、自分でタイトルまで書いているのか。でも、プロになると雑誌の編集部に詰めている版下屋さんが、タイトル文字をレタリングしてくれるから、自分で描く必要はなくなってしまうんだよ」
 その言葉を聞いて、ぼくは隣にいる菅野の顔を盗み見た。去年、〈ミュータント・プロ〉に入会申し込みをしたとき、送ったカットの絵に「レタリングがなっていない」という酷評をしていたのが菅野だったからだ。
 ――プロになれば、レタリングの技術なんて必要なくなるんじゃないか……。
 そんなことを考えながら菅野の顔を横目で見たのだが、松本先生は、まるでぼくの心中を見透かしたかのように、次のような言葉を発したのだった。
「でも、手塚先生も、タイトルは自分で描いてるだろ? 石森さんもそうだね。タイトルを版下屋さんにまかせるようになったのは、つい最近のことで、本来はマンガ家が描くべきものなんだよ。タイトルだって作品の一部なんだからね」
「は、はい……」
 ぼくは背中に冷や汗が流れるのを感じながら小声で答えた。
 松本先生は、その間も、ぼくのマンガを読み進めていた。
「飛行機は、もっとパースを極端にしたほうがカッコよくなるよ」
 こんな構図の取り方まで、具体的に原稿に描き込んでくれるのだ。あまりにも感激したせいか、ぼくの記憶は、このあたりで途絶えてしまっている。どうやって辞去したのかも、まるで憶えていないのだ。
 記憶がよみがえるのは、松本先生のお宅から徒歩で向かった久松文雄先生のお宅の玄関先だった。

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投稿者 msugaya : 21:34 | コメント (1) | トラックバック

2005年05月07日

■『仮面ライダー青春譜』 第1章 巨匠との遭遇(4)

●『スーパージェッター』の作者は、さわやか若大将

 久松文雄先生のお宅は、松本先生のお宅から石神井公園駅方向にもどる途中にあった。
「少年サンデー」の一九六五年一月一日号で『スーパージェッター』の連載がはじまったときか、その前後の号で、作者の久松文雄先生の横顔が記事のページに掲載されていたことがある。新築されたばかりの自宅の庭で、鉄棒をしている久松先生の写真が載っていたが、年齢は二十一歳と紹介されていた。
 玄関のチャイムを鳴らして待つと、すぐに久松先生がドアを開いてくれた。
 久松先生は、二年前に二十一歳だったのだから、そのときは二十三歳だったはずだ。ともに昭和十三(一九三八)年一月二十五日生まれで、二十九歳の石森章太郎、松本零士両先生よりも、六歳ほど若いことになる。背も高く、鉄棒で鍛えているせいなのか、身体もがっちりしていて、さわやかなスポーツマンといった雰囲気だった。
「ぼくら」連載の『風のフジ丸』や「少年サンデー」連載の『スーパージェッター』で人気を博した久松先生は、いまは『冒険ガボテン島』を「少年サンデー」に連載しているところだった。
「やあ、ちょうどいいところに来てくれた。いま大ピンチなんだ。ちょっと仕上げを手伝ってよ」

 これが久松先生の第一声だった。やはり菅野たちとは顔なじみのようで、声にも親しみがこもっている。
 仕事部屋に案内されたぼくたちは、アシスタントの席らしい空いている机に向かうことになった。アシスタントは休みだったらしい。
「ごくろうさま」
 仕事場の隅のソファに座っていたスーツ姿の男性が、声をかけてくれた。どうやら原稿待ちしている編集者のようだ。
 先生から手渡されたのは、「たのしい幼稚園」(講談社)に連載中の幼年マンガ『キングコング』の原稿だった。二色のカラー原稿で、すでに背景のペン入れも終わり、先生が、絵の具で色を塗っている最中だった。
 二色原稿なので、使う絵の具は朱色と茶色だけ。朱色を水で薄めて塗れば肌色になる。茶色はキングコングの毛むくじゃらの身体を塗るのに使われていた。
 ぼくたちは手分けして、渡された原稿のベタを塗りはじめた。水彩絵の具で色を塗るため、原稿用紙には画用紙が使われていた。
 キングコングが大海原を進む客船で暴れる話で、ぼくたちは、船の胴体や海の波にベタを塗っていった。ベタ塗りとは、ベッタリと濃い色で塗りつぶすことをいう。通常、ベタといえばスミベタのことで、ベタ塗りには墨汁が使われる。カラー原稿の場合は、アカ(赤)ベタ、アイ(藍)ベタ、キ(黄)ベタなどもある。
 ぼくは緊張しながら机の上に載っていた筆を借り、墨汁をつけてベタを塗りはじめた。自作マンガの批評をしてもらうつもりだったのに、いきなりプロの原稿を手伝わされることになったのだ。
 ――ベタがはみ出したらどうしよう……?
 そんなことを考えるだけで身体が硬くなり、腕が震えた。
 それでも数ページの短いマンガだったせいで、五人で手分けするとベタ塗りは、すぐに終わった。
 久松先生は、原稿をぼくたちに回すと、すでに別の仕事に取りかかっていた。『冒険ガボテン島』のキャラクター設定の仕事らしい。アニメの動画用紙に鉛筆でキャラクターを描いていく。まだ『キングコング』の原稿が終わらないうちに、アニメの製作会社の人がきて、キャラクターを描いた紙を受け取っていった。
 すぐに久松先生は、ベタ塗りの終わった『キングコング』の原稿をチェックを開始した。右手にはホワイト用の小筆が握られている。
 ホワイトとは、ペンの線やベタがはみ出したところを修正するための白のポスターカラーのことだ。ペン入れの段階から、はみ出しなどない状態で描かれていたため、ホワイトを入れる箇所も少なく、仕上げも五分ほどで完了した。
 原稿を受け取った編集者が去ると、ようやく原稿を見てもらえることになった。いや、その前に色紙にサインをしてもらわなければ。とはいえ、仕事でお疲れの様子なので、ここでは色紙を一枚にとどめておいた。
 リクエストは、もちろん『スーパージェッター』だ。「ぼくら」の『風のフジ丸』のときから久松文雄というマンガ家の名前は知っていたが、「少年サンデー」で連載がはじまったSFマンガの『スーパージェッター』は、絵がきれいなだけでなく、実に精緻で、すぐにファンになった。手塚治虫系の絵柄ではあったが、手塚マンガよりもキャラクターがスマートでカッコよかったのだ。
 色紙にサインをもらうと、こんどは原稿を見てもらった。石森、松本両先生に見てもらった原稿だ。
「これじゃ構図に奥行きが感じられないね」
 ぼくのマンガを見た久松先生は、松本先生と同じように鉛筆を持つと、ジャングルの木々を描き加えた。それも下からあおったアングルで、梢の部分が極端に小さくなっている。これだけで空間の奥行きと空の高さが感じられるようになった。
 コマの枠線で登場人物の脚が切れているところは、人物の位置を上にずらすか、コマを下に伸ばして、足先まできっちりと描くようアドバイスされた。地面に立っていないと不安定になるからだという。いわれてみれば、確かにそのとおりだった。
 ベタ塗りを手伝っていたおかげで、とうに窓の外は暗くなっていた。そろそろ夕食の時刻でもあるので、ぼくたちは先生のお宅を辞去することにした。
 色紙と原稿へのアドバイスのお礼をいって、玄関から出ようとしたときである。
「ちょっと待って」
 といって久松先生が、仕事部屋に引き返した。
 すぐにもどってきた先生は、マンガの原稿と、それを入れるための大型封筒を手にしていた。
「わざわざ静岡から訪ねてくれたうえに、仕事の手伝いまでしてもらって悪かったね。お礼がわりに、この原稿を持っていって」
 ぼくは目を丸くした。久松先生が手渡してくれたのは、『スーパージェッター』と『冒険ガボテン島』のあいだに「少年サンデー」に連載された『サンダーキッド』というマンガのナマ原稿だったからだ。ギリシア神話を下敷きにしたようなストーリーで、けっこう面白い作品だったが、『ガボテン島』の関係もあったのだろうか、連載は短期で終わっていた。
 薄手の模造紙に描かれた原稿には、吹き出しの部分に写植まで貼られている。まぎれもなく正真正銘の雑誌用に描かれた原稿だった。
 少年向けのストーリーマンガが新書判コミックスとして売られるようになったのは、この一年半ほど前からだった。少年週刊誌が六十円くらいだった時代に、新書判コミックスは二百円前後。小中学生には、おいそれとは手が出ない高額商品だった。当然、購買層は、小遣いにゆとりのある高校生以上になる。その分、著名なマンガ家の作品、あるいは名作と呼ばれるようなセレクトされた作品しかコミックスにはならない時代でもあった。マンガ雑誌に連載されたマンガが、なんでもかんでもコミックスになるのは一九七〇年代後半になってからのことだ。
「少年サンデー」に連載されたマンガも、自社ではコミックスにならず、秋田書店から刊行されることが多かった。といっても、それは『伊賀の影丸』や『サブマリン707』のような長期連載作品が中心で、短期連載作品がコミックスになることは皆無に近い状態だった。
 つまり、大半の雑誌連載マンガは、いちど雑誌に掲載された時点で、その役割を終えたことになる。だから久松先生も気楽に原稿をプレゼントしてくれたのだろう。『サンダーキッド』は、平成に入ってから復刻されているが、雑誌かゲラ刷りから版を起こしたものにちがいない。少なくとも三ページの原稿は、ぼくがもらってしまったのだから。
 すっかり暮れた大泉の住宅街を抜けて石神井公園駅まで歩くと、そこで菅野や細井たちと別れ、ひとりで東京駅に向かった。
 西武池袋線の電車に乗り、座席についたぼくは、マンガ家の先生方にいただいた色紙と原稿を挟んだスケッチブックを抱え、ニンマリと微笑んでいた。
 中学三年生の夏休みに石森章太郎先生の『マンガ家入門』を読んで以来、マンガ家になることを夢見てきたが、この日、マンガ家への距離が一挙に縮まったような気になった。
 東京までは、鈍行電車でも片道三時間。いちど出かけてしまうと、東京も、もう、そんなに遠いところではなくなっていた。

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2005年05月09日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(1)

●少年月刊誌の全盛時代

 ぼくが生まれ育った静岡県富士市は、北に富士山、南に駿河湾を望む温暖な土地で、豊かな地下水を利用した製紙業が盛んな工業地帯でもあった。
 昭和二十五(一九五〇)年生まれのぼくは、幼い頃から絵を描くのが好きで、幼稚園に入る前からマンガ雑誌を見ては、マンガの主人公たちの似顔絵などを描いていたらしい。
「うちの息子は、マンガで字を憶えた」と母がよく言っていたが、幼稚園の頃に読んでいたマンガの記憶は皆無にちかい。かろうじて『あんみつ姫』を読んだことだけを断片的に憶えている。
 マンガそのものに興味を抱きはじめたのは、小学校に入ってからだった。
 ぼくが小学校に入学した昭和三十一(一九五六)年頃は、月刊少年マンガ誌が子供たちの娯楽の王様で、本誌の厚さや別冊フロクの数を競う過激な競争がはじまっていた。
「少年」(光文社)、「少年クラブ」「ぼくら」(ともに講談社)、「幼年ブック」「おもしろブック」(ともに集英社)、「冒険王」「漫画王」(ともに秋田書店)、「少年画報」(少年画報社)、「痛快ブック」(芳文社)などが、太平洋戦争終結直後に生まれたベビーブーマー――いわゆる団塊の世代を読者として獲得するために、鎬{しのぎ}を削り合っていた頃だ。

 この前年に連載がスタートした『鉄人28号』(横山光輝/「少年」連載)が、子供たちのあいだで人気になっていた。富士山麓の工業都市に住むぼくたちのあいだでは、同じ「少年」に連載中の『鉄腕アトム』よりも、圧倒的に人気が高かった。おそらく破壊性、暴力性が、『アトム』に勝っていたからだろう。小学一年生のとき、クラスメイトと一緒に、教室のうしろにある黒板に「鉄人27号」や「鉄人28号」の絵を描いては遊んだものだった。このとき一緒に「鉄人」の絵を描いていた金森俊昭は、のちに、ぼくがマンガ家を志望するきっかけをつくることになる。
「少年」には、『ナガシマくん』(わちさんぺい)、『ポテト大将』(板井レンタロー)、『ストップ兄ちゃん』(関谷ひさし)といった人気マンガがひしめいていた。
「少年画報」の人気マンガは、『赤胴鈴之助』(武内つなよし)、『まぼろし探偵』(桑田次郎)、『ビリーパック』(河島光広)など。
「冒険王」では、『イガグリくん』(福井英一/ありかわ旭一)や『ジャジャ馬くん』(関谷ひさし)に人気が集まっていた。
 マンガを読むのは大好きだったが、小学五年生の頃までは、ぼくは、ただの読者であり、マンガを描くようなこともしなかった。

●テレビはなくても映画があった

 ぼくが小学生だった昭和三十年代の大きなできごとといえば、やはりテレビの隆盛だろう。
 しかし、昭和三十年代の前半は、テレビはまだまだ高価な電化製品で、近所の子供たちは、自動車修理工場の従業員休憩所に集まっては、『月光仮面』や『七色仮面』を見せてもらっていた。
 小学校も学年が進むにつれて、テレビは加速度的な普及を遂げていくが、わが家にはテレビが入る気配もない。そんな経済的ゆとりは、どこを探してもなかったからだ。
 父が自分で経営していた水道工事の会社を倒産させたのは、ぼくが三歳のときだった。父はどこかに姿を消したままで、ぼくは母と二人で暮らしていた。
 父は、たまに帰ってくることもあったが、そのときは必ず泥酔状態だった。玄関に鍵がかかっているとガラス戸を蹴破って入ってくるため、鍵もかけられなかった。深夜、遠くから酔っぱらった父の怒鳴り声が聞こえてくると、ぼくは毛布を持って、近所の家に避難した。
 母は、昼間は保険や化粧品の外交、夜は映画館で切符のもぎりと、働きづめに働いていた。それでも生活は苦しかった。
 ぼくにとって運がよかったのは、母が映画館で働いていたことだった。顔パスで映画が見られたからである。日活作品が三本立てで上映される中央劇場という名の映画館で、ぼくは、毎週、土曜日になると、観客席に潜り込んではスクリーンを見つめていた。
 石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、宍戸錠たちが活躍した日活の黄金時代である。ぼくは、気にいった映画があると、平日でもかまわずに、学校の帰りにカバンを持ったまま、映画館に飛び込んだ。
 小林旭と赤木圭一郎の映画がかかったときは、平日の学校帰りにも、ランドセルを背負ったまま映画館に寄り、客席の隅でスクリーンに見入っていた。
 同年代の子供たちがテレビの『月光仮面』や『怪傑ハリマオ』や『七色仮面』に熱中していた頃、ぼくは映画館の闇の中で、石原裕次郎や小林旭が映画の中で唄う主題歌を一緒になって口ずさんでいた。
 テレビも一家に一台の時代になりつつあった時代だが、ぼくの家にはテレビがなかった。テレビなど買える経済状況ではなかったのだ。わが家に中古のモノクロテレビが入るのは、東京オリンピックの翌年になってからだ。カラーテレビを買った親戚が、不要になったからとゆずってくれたものだった。
 赤木圭一郎がゴーカートの事故で重体になったときは、ローカル紙に掲載された容態を伝える記事を食い入るように読んでは一喜一憂した。赤木圭一郎の死を知ったときは、まるで身内が死んでしまったかようなショックと悲しみに襲われたものだ。
 赤木圭一郎が事故に遭ったときに撮影していたのは『激流に生きる男』という題名の映画だった。
 女優のなかで好きだったのが石原裕次郎主演の文芸作品でヒロインを演じた芦川いずみだった。清楚で可憐で愛くるしくて、こんな人が姉さんにいたらなあ……なんてことを考えながらスクリーンを見つめていた。
 母が勤める映画館の経営者は、隣の富士宮市にも映画館を持っていた。二軒の映画館は、上映時間をずらしただけの同じプログラムを組んでいた。こちらの映画館で上映が終わったフィルムをバイクで隣町の映画館に運び、あちらで上映の終わったフィルムをこちらの映画館に運んできて上映するのだ。おそらくフィルム代を節約するためだったのだろう。
 ぼくも何度かフィルム運びを手伝ったことがあった。バイクの後部座席でフィルムケースを抱えては、隣町の映画館との間を一日に何度も往復するのだ。小学生のぼくにとっては、ちょっとした冒険旅行だった。
 一九八九年公開の『ニューシネマ・パラダイス』というイタリア映画をテレビで見たとき、ふいに涙が込みあげて止まらなくなった。隣町の映画館との間でフィルム運びをするシーンが出てきたときのことだ。小学生のときに体験したフィルム運びの体験が、つい、画面のシーンに重なってしまったらしい。
 映写室が遊び場になっていたのも、『ニューシネマ・パラダイス』と同じだった。映写技師のお兄さんとも顔なじみになり、成人映画を映写室の小窓から覗き見させてもらったこともある。もちろん母には内緒だったが、小学生には、そこで展開されているシーンの意味など理解できなかった。
 市内で大映と松竹の作品を上映していた映画館が廃業すると、母が勤めていた映画館が、その代替上映をするようになった。日活作品に加え、大映と松竹の作品までもが見られるようになったのだ。勝新太郎の『座頭市』や『悪名』、そして市川雷蔵の『忍びの者』や『陸軍中野学校』のシリーズが好きで、同じ映画を何度も繰り返し見にいったものだ。とりわけ『忍びの者』は、学校帰りに劇場に飛び込んでは、七日間連続、計九回も見た。数が合わないのは土曜日と日曜日に二回ずつ見たせいだ。藤村志保の入浴シーンにドギマギしたのも懐かしい。
 土曜日の夜は、ナイトショーという遅い時間の上映があった。終了時刻は午後十一時過ぎ。それから客席の掃除を手伝うのが週末の夜の日課になっていた。
 まだ封が切られていないキャラメルやチョコレートも、よく落ちていた。暗がりで落としてあきらめたのだろう。ときどき小銭も落ちていて、これらは掃除を手伝うぼくの余録となった。
 ぼくにはテレビはなくても映画があった。毎週三本ずつの映画が、顔パスで見られるのだ。家は貧しくても、あまり苦にせずにすんでいたのは、こんな貴重な体験をしていたからだろう。
 父が戸板に載せられた状態で、あわただしく家に担ぎ込まれてきたのは、ぼくが小学5年生の真冬の朝のことだった。運び込んできた男性たちの話によると、凍てついた深いドブ川の中で倒れているのが、朝になって発見されたらしい。前夜のうちに酔っぱらってドブ川に落ち、頭のどこかを打って動けなくなっていたようだ。冷たいドブ川の水に浸かったまま一夜を明かした父は、この日以来、寝たきりの生活になった。
 父がいなかった頃のほうが、家の中は平和だった。なんとかトイレには立てるようになった父は、身体が自由にならない苛立ちで、母やぼくに当たり散らす。身体が動かないのに酒を呑んでは暴れることもたびたびだった。
「あのまま死んでしまえばよかったのにねえ……」
「あのオヤジが死んだら町内で提灯行列を出してやるのに……」
 近所の人たちが、息子のぼくに、面と向かってこんなことをいうほどに、酒乱で有名な父親だった。少し歩けるようになると、また外に酒を呑みに出ては大騒ぎを繰り返していた。近所の人たちもうんざりしていたのにちがいない。
 父の面倒まで見なくてはならなくなった母は、ぼくが小学校を卒業した年に、調理師学校に入学した。手に職をつけないと、高収入が得られないからといって、母の実家の支援を受け、学校に入ったのだ。この頃には、せめてぼくを高校までは出してやりたい……というのが母の悲願になっていたらしい。
 母は、昼は調理師学校に通い、夜は近所の割烹旅館で働くようになった。その旅館では、市内にある三軒の映画館すべてに、スライド広告を出していた。その関係で、毎週、映画館から招待状が届くのだが、旅館で働く人たちは、忙しくて映画など見にいっている暇がない。そこで招待券は、映画好きということになっていたぼくが、すべて独占させてもらえることになった。
 おかげで母が映画館をやめても、映画館通いがつづけられることになった。それも毎週、三軒の映画館に行けるのだ。どの映画館も三本立てが基本である。毎週九本、年間四百本以上もの映画を見る生活が、高校を卒業するまでつづいたのだ。
 上映される映画の大半は、プログラム・ピクチャーとも呼ばれた大衆向けの娯楽映画だった。
 一九六〇年代後半、日活と大映は凋落の一途をたどっていたが、東映はヤクザ映画が好調で、東宝には特撮とクレージーキャッツと若大将のシリーズがあった。洋画では「007」をはじめとするスパイものや戦争映画、そしてフランスの暗黒街映画{フイルム・ノワール}に夢中になった。
 映画に熱中した理由は別にもあった。母が割烹旅館で働きはじめたこともあって、学校から家に帰った後は、深夜まで父とふたりだけになってしまうのだ。
 六畳二間だけの家で、父が寝ている奥の部屋とは障子で仕切られているだけだった。寝ているだけならいいのだが、始終、誰かをののしったり叫んだりしつづけているのだ。
 父の声を聞いているのが耐えられず、夜になると、すぐに映画館に足を向けた。映画館に行ってスクリーンを見つめていれば、嫌なことを忘れることができたからである。
 それでも映画館は三軒しかない。週のうち三日は映画館で時間をつぶせたが、残りの日は、別のことで気をまぎらわせる必要があった。
 ぼくは、新しい気晴らしを見つけていた。
 新しい気晴らし――それはマンガを描くことだった。小学六年生の終わりに描きはじめたマンガに、さらに熱を入れるようになったのだ。マンガを描いていれば、自分の作った物語の世界に没入できる。父の声も遠くで聞こえるだけになった。ぼくにとってマンガを描くことは、映画を見るのと同様に、現実逃避の行動でもあったのだ。

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2005年05月19日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(2)

●「燃えろ南十字星」ショック

 ぼくは小学五年生くらいから戦記画を描くことに夢中になっていた。ノートの落書きは、零戦やグラマンF6Fといった太平洋戦争時代の戦闘機ばかり。少年雑誌の戦記記事や戦記マンガと、プラモデルのブームに影響された結果だった。
 戦記雑誌の「丸」から航空雑誌の「航空ファン」「航空情報」まで読みあさり、零戦や「隼」のスペックを頭のなかに叩き込んでいった。「丸」の通信販売で、零戦のナマ写真を買ったこともある。もちろん零戦を描くときの参考資料にするためだ。
 憧れは、小松崎茂であり、その弟子の高荷義之だった。
 高荷義之の絵は、師匠でもある小松崎茂の絵よりも精緻でスマートだった。とりわけドイツ陸軍の戦車がカッコよく、必死に真似したものだった。もっとも絵の具を使うまでには至らず、せいぜい色鉛筆を使ったくらいのものだったが。
 マンガ雑誌「少年ブック」の表紙が高荷義之の絵に変わったのは、ぼくが小学五年生の終わりくらいだったろうか。ぼくは、乏しい小遣いを貯めては、毎月一冊か二冊のマンガ雑誌を買っていたが、高荷義之が表紙絵を描くようになってからは、「少年ブック」だけを買いつづけるようになった。

「おもしろブック」から誌名を変えた「少年ブック」には、『新選組』(手塚治虫)、『大平原児』(川崎のぼる)、『ゼロゼロ指令』(石森章太郎)といったマンガが連載されていた。
 しかしぼくには、マンガよりも高荷義之の表紙の絵や、小松崎茂が講師をつとめる「戦記画教室」の方が重要だった。「戦記画教室」には、戦闘機の絵を描いては何度か応募したこともある。もっとも、入選したことはなかったが。
 そのぼくが、マンガを描きはじめたのは、学校で配布されたPTA向け雑誌のページを開いたのがきっかけだった。
「母と生活」という保護者向け雑誌が、戦記マンガの特集を組んでいた。もちろん反戦の立場から、戦記マンガを批判する内容の記事だった。
 その記事に、戦記マンガの一ページがカットとして添えられていた。題名は『燃えろ南十字星』というらしいが、作者の名前はわからない。
 記事のカットに使われていたのは、霧のなかから戦艦「大和」が浮かびあがってくるシーンだった。そしてジャングルのなかを飛ぶ九六式艦上戦闘機が描かれたコマ。どちらもあまりにもリアルに描かれていて、ぼくは絶句した。
『ゼロ戦レッド』や『ゼロ戦太郎』など、戦記マンガの数は多かったが、兵器のリアルさ、精緻さは、PTA雑誌のカットに使われているマンガのほうが数倍も上だった。
 PTA雑誌の記事によると、『燃えろ南十字星』は「日の丸」に連載されているらしい。そこに掲載されたカットにショックを受けたぼくは、このマンガが掲載された「日の丸」を求めて友人たちのあいだを駆けずりまわり、ようやく現物に対面した。
 カットに使われていたのは、その年(一九六三年)の新年号に掲載された連載第一回の冒頭シーンだった。真珠湾攻撃に連合艦隊が出撃するシーンのあと、占領されたばかりのラバウルから、ストーリーの本編がはじまっていた。
『燃えろ南十字星』の作者は、松本あきらだった。現在の松本零士氏である。
 それ以前から松本あきらのメカ描写には定評があった。『電光オズマ』や『ララミー牧場』でも、メカや拳銃の描写がカッコよくて、ビリビリとしびれたものだった。
 テレビ映画が原作になった『ララミー牧場』でも、年代別に拳銃を描き分けていたし、シングルアクションとダブルアクションのちがいも描き分けられていた。シングルアクションの回転式拳銃{リボルバー}は、きちんと撃鉄を起こしてから引金が引かれていたのだ。
 この当時、貸本劇画がリアルさを売りものにしていたが、ことメカ描写に関しては、松本あきらのマンガのほうが、五倍も十倍もリアルだった。
 もっとすごいのは、その拳銃の発射音の描写だった。貸本劇画では「ガーン、ガーーン」という擬音がリアルだとされていたが、松本あきらの西部劇では、拳銃の発射音が「ドギュム、ドギュム」になるのだ。「ガーン」よりも「ドギュム」のほうが、どこかリアルに感じられたものだった。
『燃えろ南十字星』に描かれた零戦や紫電、グラマンといった航空機の描写も、これまでの戦記マンガにはないリアルさで、しかもカッコよく見えるデフォルメがなされていた。
『燃えろ南十字星』のメカ描写にショックを受けたぼくは、購読雑誌を「少年ブック」から「日の丸」に変更しようかと考えた。高荷義之が表紙を描く「少年ブック」をとるか、それとも『燃えろ南十字星』の「日の丸」をとるかで、ウーンと悩んでしまったのだ。高荷義之と松本あきらは、ぼくにとって甲乙つけがたい存在になっていた。
 だが、その悩みは、あっというまに解消されることになる。『燃えろ南十字星』が連載されていた「日の丸」が突然休刊になり、連載マンガの何本かが、「少年ブック」で継続連載されることになったのだ。『燃えろ南十字星』も、移籍組のなかに入っていた。ぼくにとっては、まさにラッキー以外の何物でもない状態となった。
 そして、ついにぼくは、『燃えろ南十字星』の影響で、戦記マンガを描くようになった。マンガなら、一枚絵とはちがって、コマ割りができる。零戦やグラマンの動きに連続性をもたせることができるのだ。この体験は新鮮で、たちまち数十ページのマンガを描き進めることになった。
 といっても、この時点では、まだペンでマンガを描いていたわけではない。罫線の入ったノートにコマを割ってセリフを書き、絵を入れていたが、使っていたのは鉛筆だけ。実際のマンガがペンと墨汁で描かれていることも、まだ知らずにいた。

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2005年05月24日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(3)

●「マンガのかきかた」

 クラスメイトの大熊クンが、突然、自作のマンガを学校に持ってきたのは、小学六年生の終わり頃だった。
 少年雑誌のフロクと同じB6サイズの紙に、数十ページのSFロボットマンガを描いたものだ。しかも墨汁をつけたペンで描かれ、色鉛筆で彩色された表紙までついていた。
「菅谷クンも絵が好きなんだから、マンガを描いてみたら?」
 おっとりした性格の大熊クンは、そういって、秋田書店から発売されていた『マンガのかきかた』という手塚治虫監修のマンガ入門書を貸してくれた。
 その本には、マンガはペンと墨汁で描くこと、失敗したところはホワイトという白のポスターカラーで修正すること、マンガを描くのは模造紙がいいこと。そして、実際に印刷されたものよりも二割拡大のサイズで描くことなどが、ていねいに説明されていた。
 こんなにも本格的で実践的なマンガの入門書を読むのは初めてだった。なぜか、ぼくの家には、終戦直後に発行になったらしいボロボロの『漫画自習手本』というマンガ教本があったが、載っていたのは「ポパイ」や「ベティちゃん」の描き方ばかり。ストーリーマンガの描き方は解説されていなかった。
 ところが秋田書店の『マンガのかきかた』には、ストーリーの作りの方法から、時間経過の描写法まで、マンガ製作の実際が、実に詳しく説明されていた。
 ぼくは、『まんがのかきかた』を借りては返し、また借りてを繰り返しながら、ペン先を買い、墨汁やホワイトをそろえていった。さらに全紙大の模造紙を八等分したものに千枚通しで穴を開けて、B5判を二割拡大した原稿用紙を作りあげ、ついにマンガを描きはじめたのだ。

 参考書となった『マンガのかきかた』は、何度、借りたかわからない。大熊クンもついにあきれはて、「そんなに熱心に読むんなら、その本、菅谷くんにあげるよ」ということになってしまったのだ。
 こうして小学六年生の終わりから描きはじめたマンガの第一作目は、もちろん、零戦やグラマンが活躍する航空戦記マンガだった。
 松本あきらの『燃えろ南十字星』に多大なる影響を受けたストーリーで、被弾して片脚が出なくなった一機の零戦が、ラバウル基地の滑走路に不時着するところからストーリーがはじまっていた。
 不時着しようとした主人公の零戦の背後には、すでに危機が迫っていた。ロッキードP‐38「ライトニング」戦闘機が、ぴったりと後ろにつけていたのである。
 一ページ描いては、次のページのストーリーを考えてコマ割りをし、鉛筆で下絵を入れては、ペンを入れてベタを塗る。その繰り返しでマンガを描きつづけていったが、いきあたりばったりだったせいで、八〇ページを過ぎてもストーリーが完結しなかった。撃墜王を競う仲間とともに敵に撃墜され、無人島に不時着した主人公が、戦争で人を殺してもいいのかどうかで論争をはじめたせいで、収拾がつかなくなってしまったのだ。
 小学生の頭では、整理できない大きな命題に取り組んだのが敗因だった。ぼくは完結を断念した。
 その結果、記念すべき処女作は、未完の大作のまま終わることになる。処女作の原稿を放り出したときには、もう中学生になっていた。

【生まれてはじめて描いたマンガ(12歳)】

生まれて初めて描いたマンガ(1)生まれて初めて描いたマンガ(2)

(※画像をクリックすると大きな絵が別ウィンドウで表示されます)

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2005年05月25日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(4)

●週刊少年誌の時代--

 ぼくが中学校に入学したのは、昭和三十八(一九六三)年の春だった。
 中学生になるとクラブ活動がある。必ず何かのクラブ活動に参加しないといけないことになっていた。
 最初、剣道部に入ったが、すぐに物理部に鞍替えした。アマチュア無線というものに興味を持ってしまったからである。
 もともと機械いじりが好きで、ラジオでも時計でも、すぐに分解するクセのあったぼくは、近所でアマチュア無線をやっていた人の家に遊びにいくと、たちまち影響を受けた。ラジオ雑誌を借りてくると、そこに載っていた回路図をもとに、真空管を使ったワイヤレスマイクの組み立てに取りかかったのだ。部品は壊れたラジオをバラして取りはずしたものだった。
 剣道部をやめて物理部に入りなおしたのは、実験室にある工具や計器を借りることができたからである。テスターのような計器は、中学生の小遣いでは買えなかった。
 クズ屋さんからタダ同然で払い下げてもらった中古ラジオから部品をはずしては、アルミのシャシーの上に組み付けていく。マイクも高価で買えなかったため、明治製菓のマーブルチョコを代用にした。筒状のケースの底にクリスタルイヤホーンを入れ、口の部分をガーゼで覆ってマイクの代わりにしたのだ。マーブルチョコには、『鉄腕アトム』のシールがオマケについていたので、マンガ好きでもあったぼくには、一挙両得だった。こうしてぼくはラジオ少年に変身していった。ラジオをイヤホーンで聴くという習慣ができてからは、父の声も、さほど気にならなくなっていた。
 ラジオ作りに熱中する時間が増えてはいたが、だからといってマンガ少年をやめたわけではなかった。
 中学生になると学校給食がなくなり、弁当持参になった。しかし、夜、旅館で働いている母は、朝が遅くて弁当を作る時間がとれず、ぼくの昼食は、毎日パンになった。このパン代を節約して、ぼくは毎週「少年サンデー」と「少年マガジン」を購入するようになった。マンガ雑誌も、すでに週刊誌全盛の時代となっていた。

「少年サンデー」には『伊賀の影丸』(横山光輝)、『大空のちかい』(久里一平)があった。
「少年マガジン」では『ちかいの魔球』(原作・福本和也/マンガ・ちばてつや)が終了し、『紫電改のタカ』(ちばてつや)がはじまっていた。
 月刊誌では「少年」で『サスケ』(白土三平)が人気を呼び、白土三平は「少年ブック」でも『真田剣流』という忍者マンガを連載し、「少年サンデー」には、『イシミツ』という不老不死の薬をテーマにしたオムニバスの忍者マンガを連載した。
 月刊少年誌が最後の残り火を燃やしていた時代でもあった。戦記マンガと忍者マンガ--そして、野球マンガを中心にしたスポーツマンガ。これらが昭和三十八(一九六三)年前後の少年マンガ雑誌の状況だった。
 さいわいにしてぼくは、家で勉強をしろといわれた記憶がない。宿題も家でやっていたのは、小学生のときまでだった。中学生になると宿題は、学校にいってから休み時間にやるものと決め、家ではラジオ作りとマンガ描きに明け暮れていた。
 読む雑誌も増えていた。マンガ雑誌、戦記雑誌、航空雑誌に加え、ラジオ雑誌まで読むようになったのだ。
 この頃の「初歩のラジオ」「子供の科学」(ともに誠文堂新光社)の読書投稿欄には、あきらかにマンガを描いていると思える達者なペンタッチのカットも載っていた。忠津陽子という名前の読者が投稿したマンガは、かわいらしい雪ダルマを描いたもので、年齢は十二歳となっていた。

●ラジオ少年と読書少年の日々--

 中学二年生になると、ますますラジオ作りがエスカレートした。実際にハムをやっている教師が物理部の顧問になったのだ。
 この教師の自宅に押し掛けて、高価だった水晶発振子を貸してもらったり、足りない部品を分けてもらったりもした。そうして作った送信機で電波を飛ばしては、無免許{アンカバー}の通信をしたのもこの頃だ。
 この年――昭和三十九(一九六四)年の最も大きなできごとは、なんといっても東京オリンピックだった。その直前、新幹線も開通し、三波春夫の「東京五輪音頭」のテーマソングに乗って、日本中が沸いていた。
 オリンピックのテレビ中継を授業でも見ることになり、電気に詳しいぼくが選抜されて、図書室にテレビを設置した。
 クラブ活動とは別に、クラスごとに各種の学級委員が任命されていたが、ぼくは担任の教師から、強制的に図書委員に任命された。理由は、実に簡単だった。図書委員になりたい生徒がいなかったので、担任教師は図書室に出かけて貸し出しカードを抱えてくると、そのなかで一番たくさん本を借り出している生徒を調べはじめたのだ。
 結果は、ぼくがダントツの一位だった。
 マンガやラジオ雑誌以外の「普通の本」は学校の図書室で借りる。それがぼくの信条で、図書室の本を毎日のように借り出していた。それも小学校のときから愛読していた岩波少年少女文庫から、電気やラジオに関係する本までだ。
 化学部の部員と鍵のかかった薬品室の窓をこじ開けては、硝酸、塩酸、硫酸、マグネシウムなどを持ち出し、王水や火薬もどきなどを作っていたが、そんな化学の知識も、すべて図書室の本から得たものだった。
 アインシュタインの相対性理論の解説書まで読んでいた。理解できたかどうかは別問題だが、太陽風というものを目視できるのではないかと、スピーカーを鳴らすトランスをバラしてほぐした髪の毛のように細いエナメル線を、学校のグランドの端から端まで二〇〇メートルほども引っ張ったこともある。
 そんな本の書名が羅列された図書の貸し出しカードを見て、ぼくを図書委員に任命した担任教師の一言がすごかった。
「おめえ、精神分裂症じゃねえの?」
 体育の教師だったせいで、言葉も乱暴だったが、この言葉は、実に的確だったようにも思う。
 マンガも描いていたが、戦争マンガだけでなく、ミステリーや冒険ものにも手を出すようになっていた。これも図書室で借りた本の影響だった。
『ツバメ号シリーズ』で知られるアーサー・ランサム、『エーミールと探偵たち』『飛ぶ教室』『ふたりのロッテ』などのエーリヒ・ケストナー、『名探偵カッレ君』のアストリッド・リンドグレーン、そして『怪盗ルパン』のモーリス・ルブランといった作品を集めた岩波少年少女文庫は、いちど小学生のときに読んでいたのに、中学生になっても読み返していた。

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