« 2005年05月 | メイン | 2005年07月 »

2005年06月01日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(5)

●「ボーイズライフ」がやってきた

「ボーイズライフ」という革新的な少年雑誌が小学館から創刊されたのは、昭和三十八(一九六三)年のことだった。ぼくが中一のときのことだ。「中学生の友」という雑誌の休刊後、新たに中学生以上の男子向けに創刊された雑誌で、少しマニアックなマンガや記事が掲載されていた。
 マンガでいえば『片目猿』(横山光輝)や白土三平の短篇オムニバス。大藪春彦のガンアクション小説やSFもあった。
 この雑誌に、ショーン・コネリー主演の映画で人気の出ていた「007シリーズ」の一作『死ぬのは奴らだ』(イアン・フレミング原作/さいとう・たかを劇画)の連載が、突如として開始されたのは、東京オリンピックで明け暮れた一九六四年が終わる頃だった。
 すでに貸本劇画の巨匠だったゴリラこと、さいとう・たかをが、本格的にメジャー雑誌に連載で登場した記念すべき作品でもあった(芳文社の大人向け漫画誌に作品を発表していたことはあったが、少年向け作品は、この直前に「少年サンデー」増刊号に掲載された『燃えろ忍びの森』という読み切り時代劇くらいしかなかったはずだ)。
「ボーイズライフ」の『007』は、さいとう・たかをの貸本劇画作品とは、あきらかにちがっていた。冒頭の高層ビル街の夜景が、すでに凝りに凝った精細なペン画になっていた。この絵を見ると、貸本劇画作品は、描き飛ばしていたとしか思えないほどだった。この『007シリーズ』なくしては、『ゴルゴ13』もなかったはずだとぼくは信じている。

「ボーイズライフ」には、長岡秀三というイラストレーターが、口絵のページで大活躍をつづけていた。空母「ミッドウェー」の透視図を描いた大判のポスターが、特別フロクについたこともある。
 長岡秀三は、「ボーイズライフ」の仕事と並行して、「少年サンデー」の口絵や挿絵の仕事もこなしていた。戦艦「大和」や零戦の分解図や透視図が多かったが、これらの仕事をしていた頃の長岡秀三は、まだ武蔵野美術大学のデザイン科に在学する学生だったらしい。少年雑誌の口絵や挿絵の仕事は、学費を稼ぐためのアルバイトだったのだ。
 このとき武蔵野美大で席を並べていたのが、後にマンガ家となって『同棲時代』などでヒットを飛ばす上村一夫だった。上村は、授業中に「少年サンデー」の口絵を描いている長岡に驚嘆していたという。
「少年ブック」の表紙を描いていた高荷義之のファンでもあったぼくは、同じように精緻な絵を描く長岡秀三のファンでもあった。
 長岡秀三は、後にアメリカに渡り、カーペンターズやジェファーソン・スターシップのレコード・ジャケットを手がけて名をあげる。渡米後の名前は長岡秀星になっていた。
 ここでは意識して「口絵」「挿絵」という言葉を使っているが、「イラスト」という言葉がポピュラーになるのは、もう少し後になる。「平凡パンチ」で大橋歩や柳生弦一郎などが人気者になってからだ。すでに、その兆しはあったのかもしれないが、少年雑誌の世界では、まだまだ「口絵」であり「挿絵」であった。
「ボーイズライフ」は、このようなビジュアル面だけでなく、読物にも力を入れていた。それまで、どこか日陰の作家のイメージがあり、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の専属作家のような感さえあった大薮春彦が、ガンアクション小説の連載をつづけていた。また、いまをときめくSF作家たちが、外国人の名前でSF読物を書いていた。
 ぼくは小学生の頃から、大薮春彦の隠れ愛読者でもあった。近所の友人の家に遊びにいくと、いつも「アサヒ芸能」が置かれていた。どうやら父親が購読していたものらしい。当時の田舎では「アサヒ芸能」は、完全なエロ本扱いだった(いまでも似た状態かもしれない)。子供が読んでいたら必ず怒られる雑誌でもあったが、ぼくは、毎週、この友人の家に遊びにいっては、こっそりと「アサヒ芸能」を開いていた。
 目的は大薮春彦のガンアクション小説だった。性的な描写があったかどうかは記憶にない。拳銃やライフルの出てくるシーンばかりを拾い読みしていたからだろう。ルガーP‐08、ワルサーP‐38といった拳銃のスペックは、大藪小説を通じて憶えていった。
 のちに小学館の編集者に聞くと、この「ボーイズライフ」の社内での位置づけは、〈早すぎた雑誌〉であったらしい。一部の好き者少年には評判のよかった「ボーイズライフ」も、一九六八年には休刊となったが、高校生以上にまで成長していたマンガ好きの読者のためには「ビッグコミック」を生み出し、記事とグラビア部門は、「GORO」を生み出す母胎となった。一九六八年の休刊直前に連載されていた大藪春彦の『血まみれの野獣』は、この年の暮れに東京府中で発生した三億円事件とストーリーがそっくりで、犯人が参考にしたのではないかともいわれていた。
「ボーイズライフ」を読んでいなかったら、ぼくもマンガ家にならなかったかもしれない。この雑誌の読書欄で見つけたマンガ同人誌の会員募集に応募したことが、マンガ家への足がかりとなったからである。

投稿者 msugaya : 00:14 | コメント (8) | トラックバック

2005年06月04日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(6)

●忍者マンガ

 ぼくが小学生から中学生だった時代、少年ジャーナリズムの世界においては、忍者マンガと戦記マンガが二大ブームとなっていた。
 忍者マンガといえば、第一人者は誰がなんといおうと白土三平だった。
「少年」の『サスケ』、「少年ブック」の『真田剣流』(第二部は『風魔』と改題)、そして「少年サンデー」にオムニバスで掲載された『イシミツ』などが、この時期の白土三平の代表作といっていいだろう。
 なかでも人気の高かったのが、のちにアニメにもなる『サスケ』であった。このマンガに登場する「微塵がくれの術」の科学的(?)な解説は、ちょっぴり理科系少年でもあったぼくの胸をときめかせたものである。
 白土マンガの忍術の解説は、その後の野球マンガにおける魔球の解説などと一脈通じるものがあった。
 だが、魔球の解説は非科学的なものが多く、どう見てもこじつけとしか思えないものが大半だった。それに対し、『サスケ』の忍術解説は、まるで理科の教科書を読んでいるような錯覚を起こさせた。
 なかでもよく憶えているのは、サスケが老婆とともに岩穴に閉じ込められたとき、老婆の着ていた綿入れの綿に、岩のあいだからにじみ出ていた天然の硝酸をかけて、火薬を作り出すシーンだった。サスケは、その方法で作った火薬を使って岩を砕き、洞窟からの脱出に成功するというストーリーだった。
 ぼくは、中学二年生のとき、この火薬作りを試してみたことがある。

 まず、化学部の部員だった同級生とふたりで、化学実験室に隣接した薬品保管室に忍び込み、硝酸をいただいてきた。この硝酸を綿の上にかけてみて、火薬ができるかどうかを実験したのだ。
「サスケ」のマンガでは、綿に硝酸をかけると黒い火薬の粉ができあがったのだが、ぼくたちの実験では、綿が硝酸を吸い込んだだけでおしまいだった。ほかに何の反応もない。
 とにかく乾くのを待って、マッチで火をつけてみたが、ボッと少し勢いよく燃えただけだった。
「あのマンガは、インチキだ」
 ということになったのだが、念のため、図書室にいって、化学の本をかたっぱしから開いてみた。
 すると、硝酸をしみこませた綿は、「硝化綿」とか「硝化セルロース」と呼ばれ、無煙火薬の原料に使われるものであることが判明した。ノーベルのダイナマイトも、ここからはじまっていたのだ(実際の硝化綿は、硝酸と硫酸の混合物を綿に染み込ませて作る)。
 しかも、そのまま火薬として使えるわけではないらしい。金槌で硝化綿を叩くと、音を立てて爆発するという。ぼくは、校舎の裏庭に硝化面を持ち出すと、石の上に載せてトンカチで叩いてみた。
 パチン! と小さな音を立てて、硝化綿が、線香花火のような火花を飛ばしたが、それで終わりだった。
 いくらマンガとはいえ、こんなことを実際に試す読者もいるのだ。マンガ家は気をつけなくてはいけない。
 自分の体験から得た教訓も、実際にマンガ家になったときには、すっかり忘れていた。『ゲームセンターあらし』というテレビゲーム・マンガを描いたときに、主人公に「炎のコマ」という必殺技を使わせたのだが、その頃のテレビゲームに使われていたマイコンのCPUは、クロックが1メガヘルツくらいの遅いものばかり。ならば、スイッチで一秒間に百万回以上のオン、オフを繰り返せば、CPUがだまされて、ブロック崩しやインベーダーのゲームで大勝をおさめることができるはず――と考えたのだ。むろん、消える魔球と同様のヘリクツである。
 一秒間にテレビゲームのレバーを100万回も動かすために、摩擦によってレバーが熱を持ち、炎を吹き出してしまう--という設定になっていたのだが、このバカバカしさが子供たちの人気を呼んだ。
 ただ人気になったのだったら問題はない。ところが、たくさんの子供たちが街のゲームセンターで「炎のコマ」を試してしまったのだ。ゲームマシンのレバーを壊したり、勢いあまって手を怪我した子供もいたらしい。そんな投書をたくさんもらったぼくは、あらためて中学生時代の危ない実験のことを思い出したのだった。

●戦記マンガが少年雑誌のハシラだった

 忍者マンガと並んで、この頃、人気があったのが戦記マンガである。一応、どんな戦記マンガがあったか、列挙してみよう。

■「少年サンデー」

◎『大空のちかい』(久里一平)

 陸軍加藤隼戦闘隊に所属する少年パイロットを主人公にしたマンガ。戦闘機である隼の編隊が飛ぶシーンには、「加藤隼戦闘隊」の歌の歌詞が書かれていた。作者の久里一平は、アニメ・プロダクション「竜の子プロ」の創立者吉田竜夫(個人)の実弟。

◎『あかつき戦闘隊』(相良俊輔・原作/園田光慶・マンガ)

『大空のちかい』の後、しばらくしてからはじまった戦記マンガ。貸本劇画時代は、ありかわ栄一の名前で活躍していた園田光慶が、「少年画報」「少年キング」などの雑誌で活躍した後、「サンデー」に本格進出した記念すべき作品でもある。
 海軍の零戦パイロットが、任地である太平洋の孤島に零戦で赴くと、いきなり、ならず者たちの集まりである味方から銃撃を受けるというファーストシーンは、なぜか日活で石原裕次郎が主演した『零戦黒雲一家』の冒頭と同じだった。ぼくは『零戦黒雲一家』を母が勤めていた映画館で、七日間連続で見ていたため、こんなことまで気になったりもした。

■「少年マガジン」

◎『紫電改のタカ』(ちばてつや)

 出てくる戦闘機が、みんなブリキ細工みたいに見えて、ちょっと情けなかった。しかし、ストーリーでは、さすがに「笑いと涙」のちばてつや。最終回では、誰もが泣いた。
 ぼくが中学二年生頃だっただろうか、ちばてつやが「紫電改のタカ」を描くところがNHKのテレビで放映されたことがある。ちばてつやが実際にペン入れをするのは、顔の中身と輪郭だけで、あとはアシスタントまかせだったのを見てびっくりした。しかも、そこでアシスタントをしていたのは、大阪の日の丸文庫で活躍していたはずの政岡としや(稔也)と梅本さちおだった。
 政岡としやは、その後、青年劇画誌「コミックVAN」で戦記マンガを描いたりもしたが、そのときのメカは、実にカッコよく描かれていた。
 梅本さちおは、まもなく「少年マガジン」の増刊号などに読み切りマンガを発表し、やがて創刊される「少年ジャンプ」(はじめは隔週だった)に『くじら大吾』という身体のでっかい少年が主人公のマンガを連載する。つづいて「少年キング」に連載した『アパッチ野球軍』(花登筺・原作)がアニメ化されてヒット。その後も『リトルの団ちゃん』(「月刊少年チャンピオン」連載)などで活躍するが、一九九三年、五十歳で死去。ぼくが知り合ったのは一九八〇年前後だが、その頃には、マンガも描かなくなりつつあった。

■「少年キング」

◎『忍者部隊月光』(吉田竜夫)
 テレビにもなった、あまりにも有名な忍者+戦記マンガ。マンガでは太平洋戦争が舞台になっていたが、水木譲主演のテレビ版では、現代を舞台にしたスパイ+忍者モノになっていた。
 吉田竜夫は、アニメ・プロダクション「竜の子プロ」を設立し、「少年ブック」に連載していた『宇宙エース』をテレビアニメ化する。このアニメは、カネボウハリスがスポンサーになっていたが、その後、カネボウハリスは、同じ吉田竜夫の柔道マンガ『ハリス無段』、ちばてつやの『ハリスの旋風』などのタイアップ作品を次々と手がけるようになる。

■「少年ブック」

◎『燃えろ南十字星』(松本あきら)
 この作品については本文で触れたので省略するが、同じ「少年ブック」では、望月三起也が、戦記マンガの読み切りシリーズを、別冊フロクで描いていた。

■その他

◎『虎の子兵曹長』(わちさんぺい)
 元、陸軍航空隊整備兵の経歴を持つ『ナガシマくん』のわちさんぺいが描いた航空戦記マンガ。東南アジアを舞台にしていた。絵は、もともとがギャグマンガ家なので、線なども簡単だったが、その省略された線で描く隼などの戦闘機がリアルだった。また、石油タンクの爆発、火薬による爆発などの煙の描きわけをきちんとしており、さすが経験者はちがうと妙に納得したものだ。
「隼」が機体を傾けるときは、必ず「クラッ」という擬音が入っていた。現在、航空戦記小説を書く筆者が、小説中で戦闘機が傾くとき、つい「クラッ」という擬音を使ってしまうのは、このマンガの影響によるものである。

投稿者 msugaya : 01:45 | コメント (2) | トラックバック

2005年06月10日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(7)

●もう一人の「影丸」――貸本劇画の時代

「おい、菅谷。いくらたくさん雑誌のマンガを読んでたって、『影丸』を知らないようじゃマンガ好きとはいえないぞ」
 中学二年生のとき、休み時間にKというクラスメイトがぼくに声をかけてきた。
「影丸って、『伊賀の影丸』じゃなくて?」
「ちがう、ちがう。白土三平の『忍者武芸帳』の主人公さ。首を切られても生きてるすごい忍者なんだ」
「白土三平って、そんなマンガも描いてたの? 雑誌では見たことがないけどなあ」
「雑誌じゃなくて貸本屋で借りてくる単行本だってば。初めてのときは、生徒手帳を預けて借りる仕組みになってるんだ」
「へええ……」
 ぼくは、その話を聞いて、初めて貸本屋というところに足を向けた。それまでさんざんマンガを読んでいながら、貸本屋には縁がなかった。市内に貸本屋は二、三軒あったが、歩いていけるのは一軒だけ。あとは自転車が必要なほど遠かった。
 商店街のあいだに、ひっそりと埋もれていた一軒の貸本屋に出かけると、書棚には、それまで目にしたことのないようなマンガの本がズラリと並んでいた。

 焼きソバ店や理容店の待合室にも、業者が定期的に運んでくる貸本店向けのマンガ本が並んでいたが、そこにあるのは手垢にまみれた古い本ばかりだった。掲載されているマンガも、少年雑誌に載っているものに比べると、ずっと泥臭く、また、ヘタクソに見えた。そんなこともあって、貸本店向けのマンガや劇画には、いまひとつ興味が持てずにいたのだ。
 貸本屋に入ってはみたが、最初に本を借りるときに生徒手帳を預けなければいけないという。学校では、ときどき抜打ちの持ち物検査があり、生徒手帳を持っていないと、立たされたりもする。しかも、その貸本屋にやってくる客は、チンピラ風の若者や水商売風の男女ばかり。ヤバイところのような気がして、早々に退散してきたのだった。
 翌日、Kにそのことを話すと、生徒手帳を預けなくても本を借りられる貸本店を教えてくれた。
 その貸本店は、東海道本線の駅を挟んだ反対側にあった。中学校の学区も異なる地域だったため、そんなところに貸本屋があることも知らなかった。
 ここでは、店番をしている初老のおばさんが、生徒手帳で住所と名前を確認するだけで、あとは何もいわずに本を貸してくれた。
 最初に借りたのは『忍者武芸帳』ではなかった。人気があるせいなのか、店内には見当たらなかったからである。
 ぼくは、さいとう・たかをの『台風五郎』シリーズを二冊ほど借りてきた。子供の頃に見ていた日活アクション映画に似た雰囲気に惹かれたからである。
 それまでにも、焼きそば店や理容店で、さいとう・たかをの作品を読んではいたが、その大半は、「ゴリラ・マガジン」や「刑事」といった短篇劇画集に掲載された短編ばかりだった。
『台風五郎』を読んだぼくは、少年マンガ雑誌にはない貸本劇画の迫力に打ちのめされ、これがきっかけで、貸本屋に通い詰めることになる。
 佐藤まさあきは、絵は好きではなかったが、暗いムードとストーリーに魅せられた。
『忍者武芸帳』は、その後も、なかなか借りるチャンスに恵まれず、まとめて読むのは、小学館で文庫が出てからのことになる。『忍者武芸帳』を熱心に読もうと思わなかったのは、「サスケ」などの少年マンガと比べると、絵が荒々しく、ちょっと見には雑に見えたからだ。さいとう・たかをの絵が、迫力ある荒さで描かれているのは許せるが、雑誌の丁寧な絵を見慣れていた白土三平の方は、その荒さが、手抜きのように思えてしまったのだ。読者というのは、本当に勝手なものである。

投稿者 msugaya : 04:01 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月22日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(8)

●「劇画」と「マンガ」

 焼きそば店や理容店で貸本店向けの単行本を読んでいたせいで、貸本店向けのマンガが「劇画」と呼ばれていることは、だいぶ前から知っていた。
 もっとも、当時(一九六〇年代前半)、この「劇画」という名称を知っていたのは、貸本店のユーザーくらいのものだったろう。
「劇画」という言葉が、雑誌でも一般化してくるのは、その後、相次いで創刊された青年コミックス誌に、貸本屋向け劇画家たちが大挙登場してくるようになってからである。
「ガロ」に連載していたマンガ家の作品をも「劇画」と呼称する評論家もいたが、白土三平、水木しげる、つげ義春といった「ガロ」系のマンガ家が、みずから「劇画家」と称した事実はない。
 ぼくは、おそまきながら貸本屋の単行本を読みふけるようになり、そこにあった古い単行本を読みながら、劇画の歴史をさかのぼっていった。
「劇画」という呼称を使いだしたのは、関西を拠点にしていた貸本向けのマンガ作家たちだった。辰巳ヨシヒロ、松本昌彦、山森ススム、さいとう・たかを、佐藤まさあき、といった作家たちが「劇画工房」という組織を作り、それまでのマンガと表現方法において一線を画すという意味合いから、「劇画」という呼称を使いだしたのが最初だったはずだ。
 ぼくが読んだ古い劇画短編集のなかに、辰巳ヨシヒロによる「劇画とマンガのちがい」についての解説があったのを憶えている。その内容は、次のようなものだった。

■マンガと劇画のちがい

◎拳銃の擬音:
 マンガ=パーン、パーン
  劇画=ガーン、ガーン

◎自動車の走り方:
 マンガ=スピード感を出すために、自動車の車体が宙に浮く。
  劇画=リアルさを追求するため車体は宙に浮かない。

◎登場登場人物が何かに気づいたとき:
 マンガ=頭のまわりに点々を描く。
  劇画=頭のまわりに激しいフラッシュを描く。

 ここで辰巳ヨシヒロが説明していたのは、いかに劇画がリアルな表現方法を使っているかだった。
 しかし、ぼくは、すでに松本あきらの洗礼を受けていた。マンガにだってリアルなものがあることを知っていたから、辰巳の説明には納得できなかった記憶がある。
 後年、ぼくが漫画家としてアシスタントを使うようになってからのことだが、若いアシスタントたちが、マンガ独特の記号的な表現法をまるで知らないという事実を知って、愕然としたことがある。
 びっくりしたときに汗が飛んだり、緊張したときに頬を汗が流れ落ちたり、ヒントが浮かぶと頭の上に電球が灯ったり。頭にランプが灯るキャラクターだっていた。
 作者と読者のあいだで暗黙のうちに決められていたはずの記号的表現が、すっかり影をひそめ、忘れ去られていたのだ。アニメでスタートし、その後マンガに入ってくるマンガ家志望者が多いことも、マンガ表現に特有の約束ごとに関心をはらわなくなる原因となっていたようだった。
 創世期の劇画は、大阪の日の丸文庫という出版社から発行されていた「影」や「魔像」といった短編集に多く掲載されていた。しかし、ぼくは、日の丸文庫の作品や作家は、あまり好きになれなかった。実際に発表されたときよりも、少し遅れて貸本劇画に接したせいか、古さばかりに目がついてしまったからである。
 この頃、日の丸文庫で活躍していたのは、影丸譲也、山本まさはる、みやはら啓一、梅本さちお、水島新司など。時代劇では平田弘史、石川フミヤスたちが、「魔像」を中心に、短編を描いていた。
 梅本さちお、水島新司、山本まさはるなどは、「オッス」という現代もののホームドラマ的な生活マンガをよく描いていた。水島新司は、テレビ番組の「番頭はんと丁稚どん」をマンガ化してもいたはずだ。
 自ら劇画家を名乗った作家たちとちがい、日の丸文庫系のマンガ家の作品には、庶民の生活を描いたものが多かった。
 ぼくは、日の丸文庫系のマンガ家の作品が、どうも苦手だったが、それは、藤山寛美の松竹新喜劇や花登筺などの大阪大衆演劇の臭いが感じられたせいかもしれない。ぼくは、もっとスマートでカッコいい劇画やマンガ――そう、日活アクション映画のような作品が好きだったのだ。

投稿者 msugaya : 15:47 | コメント (2) | トラックバック

2005年06月29日

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(9)

●新人の登龍門「街」

 同じ頃、名古屋ではセントラル出版という出版社が、「街」という短編集を出し、「影」と人気を張り合っていた。ここで活躍していたのは、出崎統、荒木伸吾といった都会派アクションを描くマンガ家たちだった(彼らも、劇画という呼称は使っていなかったはずなので、ここではマンガ家と呼ぶことにする)。
 出崎統は、バラリと前髪がたれたハンサムな若者が、グリスガンという進駐軍払い下げのマシンガンをぶっぱなすマンガばかり描いていた。
 ムーディーな青春マンガが得意だった荒木伸吾は、キャラクターの瞳の中に少女マンガのような十字の光を描いていた。
 出崎も荒木も、貸本劇画、貸本マンガの衰退とともに、いつしか姿を消してしまったが、やがて虫プロ製アニメのクレジットに、その名前を見るようになる。
 出崎統は『悟空の大冒険』で演出をつとめ、「COM」の創刊号からは『悟空の大冒険』のマンガを連載した。荒木伸吾も、いくつかのアニメ作品の中で名前を見つけたが、虫プロには、ほかにも「街」出身者がいた。もりまさき――のちの真崎守である。

 もりまさきが「街」の新人賞を受賞したのは昭和三十五(一九六〇)年のことだった。
「街」では月例で新人賞を発表していたが、もりは、一度に二作が入選し、その二作が同時掲載されるという破格の扱いでデビューした。
 一作は「雨の白い平行線」というタイトルで、薄幸の少女が列車に飛び込み自殺するという暗い話だった。その絵も、斜線が多用された暗いムードで、そのペンの黒い斜線のかけ合わせの上に、さらにホワイトの細い線がかけ合わされた独特の暗いとしかいいようのないムードを持った作品だった。
 もう一作は「暗い静かな夜」という題名で、やはり同じようなムードを持った短篇だった。
 余談だが、後年、マンガ専門の編集プロで編集の仕事をやったとき、真崎守氏に電話でデビュー作についてのインタビューをする機会があった。
 真崎氏は、デビュー作として、六〇年代の終わりに青年コミック誌に掲載した殺し屋を主人公とした作品の名をあげたのだが、ぼくが、『燃えてすっ飛べ!』(一九六五年/東京トップ社)や「雨の白い平行線」の名前を出すと、「なんで、そんな作品まで知ってるの!」と驚いて、しぶしぶながらも「雨の白い平行線」の名前をデビュー作として雑誌に載せることを了承してくれた。
 それもこれも中学生のときに焼きそば屋で読んだ「雨の白い平行線」の印象が強かったからである。高校生になってから東京トップ社の短篇劇画集「刑事」で、もりまさきが永島慎二と共著で『燃えてすっ飛べ!』を上梓しているのを知り、あわてて東京トップ社に購入の申し込みをしたこともあった。この本は、いまも残っているが、おまけでついてきたナマ原稿は消息不明のままだ。
「街」では、ほかにも多くのマンガ家が誕生した。宮脇心太郎、吉元正、五十嵐幸吉、のちに「ガロ」でナンセンスマンガを描き出す星川てっぷも、本名で新人賞に入選していたはずだ。
 吉元正は、その後、横山まさみちのアシスタントとなり、横山まさみちプロ(通称「よこみちプロ」)から「鉄火野郎シリーズ」などを発表。やがて絵柄をガラリと変えて、青年コミック誌の「漫画ストーリー」や「漫画アクション」(ともに双葉社)に登場する。ペンネームはバロン吉元に変わっていた。
「街」をはじめとする貸本店向け単行本の多くは、さいとう・たかをを中心としたアクション劇画に押され、次第に姿を消していった。
 短期で姿を消した「宝島」という短編集があった。永島慎二、石川球太、つげ義春、コンタロー(「一生懸命ハジメくん」のコンタロウではない)、深井ヒローなどが、だるまプロという名前で出していた貸本店向けの短編集だ。だるまプロは、武蔵野マンガプロダクションという若手マンガ家のグループが前身のグループだったはずだ。つげ義春の作品も載っていたが、後の「ガロ」の時代とは、まるで異なる作風だった。
 とくに印象に残っているのがコンタローだ。少年雑誌の別冊フロクにも、少年探偵がメッサーシュミットという三輪自動車に乗って、開きかけた開閉式の勝鬨橋を飛び越えるマンガなどを描いていた。
 スマートな絵柄で好きだったのだが、すぐに単行本でも雑誌でも見かけなくなった……と思ったら、いつのまにかイラストレーターへの転進をはかっていた。筒井康隆氏の小説の装幀を手がけるなど、幻想的な作風で知られる杉村篤氏がその人だ。
 同じ「宝島」にマンガを描いていた深井ヒローも、その後、深井国と名前を変えてイラストレーターとなり、現在も活躍をつづけている。
「宝島」の読者欄には、後に『風のフジ丸』や『スーパージェッター』、『冒険ガボテン島』などで活躍する久松文雄が「マンガ家になりたい」という手紙を寄せていた。年齢は十二歳か十三歳で、住所は新潟になっていた。国鉄の官舎だったような記憶がある。久松文雄が「漫画王」に投稿したマンガでデビューするのは、この直後のこと。たしか十四歳、中学二年生だったはずだ。

投稿者 msugaya : 21:52 | コメント (0) | トラックバック

■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(10)

●貸本劇画健在なり

 昭和三十年代に隆盛をみた貸本店向けの短編劇画集は、昭和四十年代に入ると、「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」といった少年週刊誌の台頭やテレビの普及によって、ドミノ倒しのようにバタバタと倒れ、次々に休刊していった。
 大阪を中心に活動していた劇画家の多くは、活動拠点を東京に移し、しばらくのあいだは貸本屋向けの単行本でがんばっていた。
 さいとう・たかをは、さいとうプロを設立し、佐藤まさあきも同じく佐藤プロを設立する。それぞれが、自分のプロダクションから劇画の単行本を出版するようになっていた。おそらく、このあたりが、「みずから自分たちの描く作品を劇画と読んだ」作家たちの貸本劇画時代における黄金期ではなかっただろうか。
 同じ頃、さいとうプロや佐藤プロの躍進ぶりに刺激されてか、ほかの貸本劇画作家たちも、自身のプロダクションを設立し、単行本を出版するようになっていた。横山まさみちの横みちプロも、そんな劇画家が出版も手がけるプロダクションのひとつだった。
 これら劇画家プロダクションからは、新しい勢力として、アシスタント出身の劇画家が登場しはじめていた。
 さいとうプロの短編集「ゴリラマガジン」では、以前は「魔像」などに時代劇をよく描いていた石川フミヤス、さいとうのアシスタント出身の武本サブローなどが短編を描いていた。石川フミヤスは、別に長編の青春劇画シリーズなども描いていた。
 そして、さいとう・たかを自身は、「ボーイズライフ」の『007シリーズ』を描くかたわら、『台風五郎』シリーズなどのヒット作品を描きつづけていた。

 佐藤まさあきが一貫して描きつづけていたのが『影男シリーズ』だ。また、三洋社(後の青林堂)から出ていた短編集「ハードボイルド・マガジン」の責任編集などもやっていたこともある。佐藤は、この三洋社から『黒い傷痕のブルース』というハードボイルド系の作品も出している。
 佐藤まさあきのアシスタントからは、後年、松森正が「COM」からデビューすることになるが、面白いのは、これら劇画家たちのアシスタントの多くが、貸本屋向け単行本の読者欄に設けられた似顔絵投稿欄の常連だったことだ。
 松森正(熊本県)も投稿欄の常連だったし、後に南波健二のアシスタントになる永安{ながやす}巧(熊本県)や安達{あだち}勉・充の兄弟(群馬県伊勢崎市)も、毎月のように貸本劇画の投書欄をにぎわせていた。
 安達兄弟はメチャクチャに絵がうまく、静岡の片田舎で貸本劇画の読書欄をながめていたぼくは、彼らのことを「群馬の天才兄弟」と呼んでいた。
 とりわけ弟の安達充は、名前が同じで、しかも同年齢ということもあって、妙に気になる存在でもあった。
 兄の安達勉は、その後、赤塚不二夫のアシスタントになり、あだち勉としてデビューする(二〇〇四年に亡くなった)。
 弟の安達充は高校生のときに「COM」の新人賞に佳作入選した後、石井いさみのアシスタントを経て、マンガ家として独立する。ペンネームは、あだち充だった。
(一九八三年に、あだち充氏と一緒に小学館漫画賞を受賞したぼくは、控え室で初対面となったのだが、憧れの人に会ったような気分になってドギマギしてしまい、まともに言葉も交わすことができなかった)
 昭和四十年代に入ると廃業する貸本屋も増えはじめ、貸本劇画業界全体が、急坂を転がり落ちるような勢いで滅びへの道を突き進んでいく。
 そんななかにあって、貸本の最後の残り火のように輝いて見えたのが、東京トップ社という貸本劇画の出版社だった。
 短編集では「刑事」があった。昭和四十四(一九六九)年頃まで出版され、通巻は四十六号くらいまで行っていたはずだ。
 ここには、巨匠のさいとう・たかをや、影丸譲也、永島慎二たちが作品を寄せていた。
 永島慎二の代表作のひとつ『漫画家残酷物語』も「刑事」に発表されたシリーズだった。『貧乏なマルタン』『漫画家とその弟子』など、アクション劇画誌には似つかわしくない作品を描いていたが、中学生のぼくには、まだ、ピンときていなかった。ピンと来て、あらためてシビレるのは高校に入ってからである。
 長編では、ありかわ栄一改め園田光慶が、ひとり飛び抜けてきれいな絵を描いていた。
 絵がきれいな分だけ雑誌への登場も早かった。「少年キング」に連載した柔道ものの『車大助』や、「少年画報」に連載した探偵マンガの『ホームラン探偵局』など、貸本劇画出身者とは思えない清潔感のある絵とシャープな描線が、マニア(ぼくのことだ)をうならせていた。
 園田は、貸本劇画家だった時代に、「座頭市」の現代版ともいえる盲目の殺し屋を主人公にした『完全紳士』でヒットを飛ばしていた。コートをめくると、そこに殺しの武器がズラリと納められていて、実にカッコいい劇画だった。
『ホームラン探偵局』の雑誌連載と同時期(一九六四年頃)、東京トップ社から出したのが『アイアンマッスル』のシリーズである。園田は、『アイアンマッスル』を発表することで、まさに劇画界の革命児となった。
 ラフなタッチの絵が多かった貸本劇画の世界に、かっちりとしたきれいな線を持ち込んだだけでなく、アクションシーンの人物にも、アメコミの影響によるものとおぼしき極端な遠近処理をほどこしていた。構図に奥行きをもたらし、同時に、定規の線で人物の顔や身体に影を加えることにより、さらなる立体感を出していた。
 格闘シーンでは、雲形定規を使ったかのようなきれいに揃った曲線を多用し、動きのスピード感と激しさを表現した。
 主人公に殴られる悪党たちは、顔を変形させながら血しぶきを噴出させていた。その表情があまりにも痛そうで、殴られる悪人にちょっぴり同情したこともある。
 貸本劇画を読みはじめていたぼくも、すぐさま『アイアンマッスル』の絵柄をマネしてみたが、デッサン力の問題で、すぐに断念した。
 園田が開発した技法をマネたのは、ぼくのようなアマチュアだけではなかった。多くの同業者が、次々と園田の構図やペンタッチを採り入れていったのだ。川崎のぼると南波健二のふたりが、もっとも影響を受けていたのではなかろうか。
 貸本劇画家のなかで、いちはやく雑誌進出を果たした園田だったが、『あかつき戦闘隊』の頃には、多くの追随者を生んだ貸本劇画時代の絵柄を捨て去っていた。『あかつき戦闘隊』は、それまでの園田の絵を知っている者にとっては、まるで別人の作品に見えたものだ。
 園田は、『あかつき戦闘隊』のあとに手がけた『ターゲット』になると、さらに絵柄が変わっていた。
 天才肌の半面、飽きっぽい一面もあったのか、園田は、「少年キング」連載の『赤き血のイレブン』(梶原一騎・原作)を途中で投げ出すと、『三国史』などの歴史劇画でカムバックするまで、しばらく沈黙してしまう。
 園田の影響を受けた劇画家のなかでは、川崎のぼるが最初に雑誌の世界で活躍を開始した。「少年ブック」の『大平原児』や『スカイヤーズ5』、「少年サンデー」の『アタック拳』や『タイガー66』からはじまり、後の『アニマル1』や『巨人の星』に至るまで、メジャー路線を歩みつづけていく。だが、『スカイヤーズ5』や『タイガー66』の頃の川崎の絵は、あきらかに園田の絵柄の面影を残している。
 南波健二は、テレビの『コンバット』に影響された戦争劇画が得意だった。彼も、園田光慶に影響されたのか、絵が洗練されていき、やがて、少年誌に登場するようになる。
 東京トップ社で異色の存在だったのが旭丘光志だった。『渡り鳥シリーズ』というギターを背負った青年が主人公の作品(どこから見ても小林旭の「渡り鳥シリーズ」だった)と、「社会派劇画シリーズ」と呼ばれる実際の冤罪事件などをモデルにした実録性の強い作品を交互に描いていた。後者のタイプは、のちに「少年マガジン」などで社会派劇画として話題になる作品群の原点でもあった。
 のちに編集プロに勤務し、旭丘光志氏の社会派劇画が特集された「少年マガジン」増刊号の編集を担当したとき、東武東上線沿線にお住まいだった旭丘氏のお宅まで、原稿を受け取りにいったことがある。
 そのとき、生意気にも、旭丘氏に、こんな質問をした。
「東京トップ社では、社会派劇画と『渡り鳥』シリーズを交互に描いてらっしゃいましたが、どうしてなんですか?」
 旭丘氏の作品は、高校生のときに、ほぼ読んでいたが、東京トップ社から刊行された作品のなかでは、どうみても社会派劇画のほうに力が入っていると思えたからである。
「社会派の方は売れ行きが悪くてね、『渡り鳥』を描かないと出させてもらえなかったんだよ」
 旭丘氏は、あっさりと予想どおりの回答をしてくださったものだ。

 ジリ貧になりつつも残っていた貸本向け単行本も、「ビッグコミック」(小学館)、「ヤングコミック」(少年画報社)をはじめとする青年コミック誌の登場で、その存在価値を失い、バタバタと消えていく。昭和四十三~四十四(一九六九~七〇)年頃のことだ。
 お得意さんになっていた貸本屋の一軒が廃業するときは、お店のオバサンが、「これまでのお礼に、一冊好きな本をあげるよ」と言い出した。毎日のように通い詰め、仕入れの相談にも乗るようになっていたせいだ。ぼくは考えあぐねたすえに、白土三平の『シートン動物記・灰色熊の伝記』をゆずってもらうことにした。一九六三年に『サスケ』とともに講談社児童漫画賞を受賞した作品で、動物や自然の描写が、どのコマも一幅の絵になりそうなほどの素晴らしい作品だ。ぼくは『シートン動物記』を自分のマンガの教科書にするつもりだった(画力の問題で、マネをするのは断念したが……)。
 白土三平は、貸本向けマンガ家の一方の雄でもあったが、ぼくが中学二年生の頃に創刊された「ガロ」を除けば、メジャー少年誌が活動の中心で、書き下ろしの貸本店向け作品は読めなくなっていた。
 ぼくは、貸本系の作品では、どちらかというと都会派のアクション劇画が好きだった。泥臭い感じのする作風のマンガや劇画は、どうしても好きになれなかったのだ。
 そのなかで別格だったのが水木しげるだった。
 ぼくの分類では、泥臭い絵のマンガ家に入っていたのだが、水木の作品には、幼い頃に好きだった杉浦茂や前谷惟光の作品に似た雰囲気があった。怪奇マンガが多かったが、ホワンホワンとしたノンキなムードが漂っていて、ページを開くと、つい引き込まれてしまうのだ。
 とりわけ好きだったのが『墓場の鬼太郎』シリーズである。最初に一冊だけ読んでみたら、あまりにもおもしろくて、『鬼太郎』シリーズの原点でもある『鬼太郎夜話』までさかのぼって読んでしまったほどだった。
 コマのなかに描かれた電柱に、「どっちつかずの民社党」と書かれた張り紙が描かれていたのも『鬼太郎夜話』だったのではないか。困ったことにこのコマが、ぼくの柔軟な脳細胞に民社党のイメージを刷り込ませてしまったのだ。それから四十年が過ぎたいまでも、街で民社党の流れを組む民主党のポスターを見かけるたび、自然に「どっちつかずの民社党」というフレーズが浮かんでくる。マンガの影響というのは実に恐ろしいものである。
 白土三平の『カムイ伝』や水木しげるの短篇が載っていた月刊雑誌「ガロ」(青林堂)は、発行部数が少なかったのだろう、田舎の書店では売られておらず、現物にお目にかかるのは、中学三年生になってからだった。
 ぼくの生まれた静岡県富士市という街は、製紙の街として有名で、市内には多数の製紙会社があった。本州製紙(現・王子製紙)や大昭和製紙といった大工場の敷地には、国鉄東海道本線から分岐線が引き込まれ、貨車で古雑誌や古本が運び込まれていた。いずれも再生紙の原料となる古紙としてだった。
 広大な工場の敷地内には、ゴムの防水シートをかけられた古紙の山がつらなっていた。二階建ての家よりも高く、学校の校舎よりも長い古紙の山が、はるか彼方までつづいているのだ。その山のなかに、「ガロ」をはじめとする珍しい雑誌が埋もれているのを教えてくれたのは、父親が製紙工場に勤めている金森俊昭というマンガ好きの同級生だった。
 ぼくと金森は、日曜日の人が少ない時間を見計らって製紙工場の鉄丈網を破り、工場の敷地内に侵入した。
 手には軍手、背中にはナップザックという泥棒スタイルである。目標は、もちろん古雑誌と古本の山だった。
 雨よけの黒いゴムシートをはがしては、なかの古紙の山から、目ぼしい雑誌や古書を引っ張り出すのだ。「ガロ」や「鉄腕アトムクラブ」など、地元の書店では手に入らない雑誌も発見し、ぼくたちは狂喜した。
 獲物は背中のナップザックに詰め込んで脱出したのだが、ときには警備員に見つかってしまうこともあった。
 何度も見つかるうちに、そんなにマンガが好きならと、警備員のおじさんが正門から入れてくれるようになった。もちろん相棒の金森の父親が、その工場に勤務しているのを知ってのうえのことだ。学校の校庭が十も二十も入りそうなほどに広い敷地いっぱいに、古雑誌や古書が積まれているため、警備員のおじさんも、ナップザック一杯くらいならかまわないと思ったのだろう。
「ガロ」はユニークな雑誌だった。白土三平の「カムイ伝」が連載されたのは、途中の号からだったが、それまで貸本でお馴染みだった水木しげるや諏訪栄(小島剛夕)が読み切りマンガを描いていた。新人の作品が多いのも特徴だった。
 初期の新人には星川てっぷがいる。セントラル出版の「街」でデビューした当初はシリアスなマンガを描いていたが、「ガロ」ではナンセンスマンガを描いていた。星川てっぷのペンネームを使うようになったのも「ガロ」になってからだ。
 その後、つりたくにこ、という名の変わったギャグマンガを描く女性が新人賞に入選し(最初は確かSFマンガだった)、やがて同誌で活躍するようになる。絵は雑だったが、ふしぎなおかしさが漂う作品だった。「少女フレンド」にも名前を変えて作品を発表していたはずだ。
 つげ義春の「沼」という作品が出てきたのは、ぼくが中学三年生頃ではなかったか。
「ガロ」には、マニア心をくすぐるような作品も多かったが、その泥臭さと暗さが、あまり好きにはなれなかった。自分でマンガを描くようになった後も、お手本は、松本あきら(零士)、手塚治虫、久松文雄、小沢さとる、石森章太郎といった〈きれいな絵〉を描く人たちだったからだ。
 貸本劇画に影響されて、劇画風の絵も練習したが、こちらのお手本は、さいとう・たかをであり、園田光慶だった。どちらもバタ臭さが売り物の劇画だった。
 白土三平の作品も、少年雑誌に掲載されるきれいな線で描かれたものは好きだったが、荒々しいタッチで描かれる『忍者武芸帳』や『カムイ伝』には、いまひとつ食指が伸びなかった。のちに多くのマンガ評論家が絶賛する「ガロ」の思想性も、中学生のぼくにとっては、大した意味をもっていなかったのだ。
 ちなみに「劇画」という呼称を「ガロ」系のマンガ家の作品にも与えたのは、美術評論家だった石子順造氏であった。一九六〇年代末のことである。
「ガロ」系のマンガ家たちは、みずからの作品を「劇画」と呼んだことなどなかったのに、評論家が、自分の都合で勝手に劇画にしてしまったのだ。貸本屋に通って「劇画工房」出身の〈自称劇画家〉たちの作品を愛読していたぼくは、劇画家を自称していないマンガ家まで劇画家にしてしまった評論家の文章を読んで、悲憤慷慨したものだった。

投稿者 msugaya : 21:55 | コメント (1) | トラックバック