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2005年07月05日
■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(11)
●「マンガ家入門」ショック--
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マンガを描いていたぼくに、一大転機が訪れるのは、昭和四十(一九六五)年八月のことである。
中学生最後の夏休みも終わりに近づいた頃、ぼくは、突然高熱を発し、激しい嘔吐と下痢で寝込むことになった。
小学生の頃までのぼくは、学年が変わるたび、四〇度ちかい高熱を発し、嘔吐と下痢を繰り返しては学校を休んでいた。
子供の頃からかかりつけだった医院の医師は、精神的なものが原因だと診断した。母親が神経質なほどにきれい好きで、整理整頓にも口やかましく、それが親や教師の顔色を窺っては気をつかう性格にさせてしまったのだという。熱を出したり嘔吐したりするのも、神経を過敏にしているのが原因だというのだ。
「息子を殺したくなかったら、うるさくいうのはやめなさい」
医師は、母にこうアドバイスしたという。
そこで母は、自分の性格をおさえて、ガミガミいうのをやめることにした。
それまできちんと整理されていた机のまわりや本箱は、根がズボラだったせいなのだろう、たちまち散らかり放題になった。ところが不思議なもので、それ以来、年度替わりに担任教師が替わっても、熱を出さなくなってしまったのだ。医師の診断はまちがっていなかったことになる。
高熱と嘔吐の症状が、突然、再発したのは、一九六五年の八月、中学三年の夏休みが終わろうとしている頃だった。
この頃のぼくは、家の経済的事情も考え、高校に行くこともあきらめていた。母は必死に働いていたが、過労が原因で寝込むことも多くなっていた。
わが家の経済状況を知っている近所の人たちが、ぼくの就職先の心配をしてくれるようになったのも、この頃からだった。定時制の高校に通わせてくれるシステムがあるからと、東芝の工場や電電公社(現NTT)の電話局に口をきいてくれるという人もいた。中卒での就職は、すでに皆無にちかくなっていた頃でもあった。
ぼくは、高校に行くことをあきらめてはいたのだが、どこかに忸怩{じくじ}たる思いもあった。困ったことに、成績だけはトップクラスを維持していたからだ。宿題も家でやったことがなく、登校後、休み時間にすませていた。中間、期末の試験勉強もしたことがなかったのに、なぜか、いつも上位の成績を取っていた。
トップクラスの成績を維持できたのは、おそらく父親ゆずりの記憶力があったからだろう。
ぼくの父は、飲んだくれだったくせに、いちど電話をかけた先の電話番号は、メモも取らずに記憶した。母と夫婦喧嘩したときも、二十年も前の母の言動を引き合いにして、文句をいっていた。それも昭和○年○月○日の午後×時×分頃――といった具合に、日時まで特定するのだ。もちろん母は、二十年も前のことなど忘れ去っている。そんな昔のことを蒸し返されても困ってしまうのだが、父は、そんな些末なことまで夫婦喧嘩のネタにする嫌なヤツだった。
父親が、自分の記憶力をもとに、昔の母の失敗をなじる光景を見ては、あんな大人の男にはなりたくない――と思っていたのだが、ハッと気づけば、このぼくも、いちど電話をかけるだけで、指が番号を記憶してしまうようになっていた。そんなところだけは父の遺伝子を受け継いでしまったらしく、数字やデータ類を記憶する力だけは、バツグンに良かったのだ。落語の寿限夢だけでなく、東海道本線・山陽本線の全駅名も、小学生の頃には暗唱できたほどだった。中学生になってからは、テレビ映画『逃亡者』のナレーションまで暗記した。
当時のテストは、科挙の登用試験のように、暗記力が勝負の分かれ目となる問題が多かった。当然、記憶力が成績向上にもつながることになる。塾にもいかず宿題もやらず、もちろん試験勉強もしないのに、それでも上位の成績を維持できたのは、父親ゆずりの暗記力、記憶力のおかげだったのだ。
高校進学は断念していたつもりでも、周囲の誰もが目の色を変えて、高校受験のための勉強に取り組みはじめたのを見ているうちに、なぜ俺だけが高校に行けないんだ――というみじめな思いに取りつかれるようにもなっていた。
そして、その思いは、父に対する怨嗟にもなった。
――この父さえいなければ、ぼくと母は、もっと楽な暮らしができたはずなのだ。
そう思い込むようになってしまったのだ。
父は、身体が不自由なのに、夜になると酒を飲みに出かけては、酔っぱらって帰ることが多くなっていた。深夜、遠くから聞こえてくる怒鳴り声を聞くと、反射的に殺意を抱いたものだった。
父に何かいわれるたび、「うるさい!」と怒鳴り返し、「お前なんか死んじまえ!」と喚くようにもなっていた。遅ればせの反抗期にも入っていたらしい。
とりわけ夏休みは、家にいる時間が長くなる。父親と接する時間も多くなる分、当たり散らす回数も増えることになってしまうのだ。そのくせ、半身不随の父親を怒鳴りつける自分が情けなくなり、自己嫌悪におちいる日々がつづいていた。
四〇度の高熱を発し、激しい嘔吐と下痢で寝込んでしまったのは、あと十日ほどで夏休みが終わろうとしている頃だった。二学期がはじまって学校に行けば、毎日、高校受験の話題にさらされる。そのことが気になって、また身体がパニックを起こしてしまったのかもしれない。いまなら、登校拒否とか自閉症など呼ばれる症状の一歩手前だったのだろう。しかし、そんな気のきいた病名など、まだ聞いたこともない時代だった。
そんなとき、製紙工場がマンガ雑誌の宝の山だということを教えてくれた金森俊昭が、ぼくの家にやってきた。ぼくが寝込んで三日目くらいのときのことだ。
「おい、いま本屋にいったら、石森章太郎の『マンガ家入門』という本があったぞ」
金森が、いきなり早口でまくしたてた。
「えっ、ど、どんな本?」
ぼくは、布団の上に起きあがって訊いた。もちろんパジャマ姿のままだ。
「パラパラめくっただけだから、よくわからないけど、一ページごとにコマ割りのしかたなんかが説明してあってさ。『マンガのかきかた』よりも、ずっと詳しく説明されているんだ」
「いくらだった?」
「三百二十円。早く買いにいかないと、誰かに買われちまうぞ。じゃあな」
金森は、そういって玄関から出ていった。
ぼくは、もう、いても立ってもいられなくなっていた。なんとか布団から抜け出すと、ふらつく足で家の外に出た。洗濯物を干していた母に、お金を貸してほしいと頼むためだ。
「なんの本?」
母が訊いた。
「マンガの参考書」
「学校の参考書なんかまちがっても買うわけがないものね」
母は、アハハハと笑って財布から五百円札を出してくれた。
パジャマ姿だったぼくは、なんとか着替えをすると、家の外に置いてあったオンボロ自転車にまたがった。この数日、重湯{おもゆ}だけしか口にしていなかったので、自転車のペダルを漕ぐ足にも力が入らない。まるで雲の上を走っているような感じだった。
夏の太陽が頭のてっぺんから照りつけて、ぼんやりしている頭をよけいにクラクラさせる。商店街のアーケードの柱に自転車を立てかけて、夏の日差しのなかから薄暗い本屋の店内に飛び込むと、突然、目の前が真っ暗になった。明るい屋外から暗い店内に、あわてて飛び込んだせいだ。
目が慣れるまでにしばらく時間がかかり、ようやく本棚が見えるようになってきた。店のなかには、店員がひとりいるだけだった。
田舎の町では、真夏の昼下がりに本屋にやってくるような物好きはいない。もちろん、この頃の本屋には、冷房などという気のきいたものも入ってはいなかった。店内には、熱気と湿気が籠もっていた。
ぼくは、金森に教えられていた児童書の書棚にふらつく足を向けた。
『マンガ家入門』は、すぐに見つかった。
箱入りの豪華本だ。用心しながら箱からセロファンのかかった本体を出し、そっとページを開いてみる。
最初に見たのは奥付の部分だった。初版の発行は一九六五年八月十五日になっていた。定価は三百二十円。発行所は「マンガのかきかた」と同じ秋田書店だ。正式タイトルは、『少年のためのマンガ家入門』となっていた。
ぼくは『マンガ家入門』を買うと、急いで家にもどった。
家に着くと、包装紙を開くのももどかしく本を取り出し、胸をドキドキさせながら、石森章太郎作品のキャラクターが描かれた表紙をめくった。
見返しには、石森章太郎作品のキャラクターがちりばめられていた。サイボーグ009がいる。ミュータント・サブがいる。となりのタマゲ太くんもいる。そして、かつて熱中して読んだ『怪傑ハリマオ』や『少年同盟』の主人公たちもいた。
扉の絵は、二色で描かれたマンガ家の机の上の絵だ。ペンがあり墨汁があり、鉛筆とホワイトがある。カラスグチもあった。筆立てには、彩色用の筆といっしょに羽根ぼうきも入っていた。
カラー口絵は、本文の中でテクニックが解説されている『龍神沼』の絵だ。その下には、四色オフセット印刷と、三色印刷の色の塗り方の解説がされていた。
四色オフセット--こんな言葉を目にするのもはじめてだった。
■まえがき
第1部 入門編
■第一章 おさらい
●一、道具
●二、かき方
●三、発表方法
■第二章 自己紹介(マンガ家への道)
●マンガファン
●投稿時代
●デビュー
●マンガ家生活
●スランプ
●現在
第2部 テクニック編
■第一章 ギャグマンガ
●どろんこ作戦
■第二章 ストーリーマンガ
●龍神沼
■第三章 その他のマンガ
(1)幼年マンガ・絵本
(2)一コマ・カット
(3)4コマ
(4)パノラマ
(5)その他のその他
第3部 総集編
●マンガ家きのう・きょう・あす
●マンガ家と健康
●マンガ賞
●児童マンガ家になるための10の条件
■あとがき
これが「マンガ家入門」の目次である。
ぼくは、外が暗くなったのも気づかずに、『マンガ家入門』をむさぼり読んでいた。
なかでも夢中になって読んだのは、石森章太郎の半自叙伝ともいえる第2章の「自己紹介(マンガ家への道)」だった。
そこには、中学生時代から投稿をはじめ、高校生時代には手塚治虫にもアシスタントを依頼され、そのうえにマンガ家としてもデビューしたという石森章太郎の経歴が書かれていた。
上京した後の貧乏物語、トキワ荘の生活など、マンガを描くのが好きな田舎の少年の琴線をかき鳴らすには充分な内容が、これでもかというくらいに書きつらねられていたのだ。
『マンガ家入門』は、マンガ入門書であると同時に、石森章太郎というマンガ家ができるまでの〈青春物語〉でもあったのだ。
――マンガ家になりたい……!
『マンガ家入門』を読み終わったときには、ぼくの心の奥底に、ほのかな希望の光が生まれていた。
この頃、同じことを考えていたのは、ぼくだけではなかった。『マンガ家入門』を読んだ日本中のマンガ少年、マンガ少女が、やはりマンガ家になる夢で、胸をはち切れんばかりにふくらませていたのだ。
全国のマンガ少年、マンガ少女にとって、『マンガ家入門』は、『資本論』や『毛沢東語録』よりも熱い〈魂の書〉でもあったのだ。
投稿者 msugaya : 18:25 | コメント (3) | トラックバック
2005年07月13日
■追悼・永島慎二氏
永島氏に初めてお会いしたのは1969年晩秋のことだった。
この年の春、高校卒業と同時にマンガ家のアシスタントになるために上京したぼくは、氏の連載本数が減ったことから半年で退職を余儀なくされ、一緒にアシスタントをしていたマンガ仲間の細井ゆうじの家に居候させてもらったあと、知り合いのマンガ家の紹介で、池袋東口にあったマンガ専門の編集プロに就職した。隣には一律100円で映画が見られる文芸座があり、事務所の入っているビルは、1階と2階がソープランドという素晴らしい環境の会社であった。
この会社に入った直後、ぼくは社長に命じられて、中央線・阿佐ヶ谷駅近くにある永島氏のお宅を訪問した。用件は、ぼくの写真を届けにいくことだった。ぼくが入社した編集プロでは、社員全員の名刺に、永島氏の筆になる似顔絵が入っていた。この名刺につける似顔絵を描いてもらうため、ぼくは自分の写真を届けることになったのだ。
このときは、玄関先で写真の入った封筒を渡し、後日、できあがった似顔絵をいただきにいったが、会話したのかどうか、まるで記憶がない。おそらくアガっていたせいだろう。永島氏が虫プロに勤務していた時代に貸本劇画誌「刑事(デカ)」に描いていた「漫画家残酷物語」、虫プロ退社後、「少年キング」に短期連載した「源太とおっかあ」や「COM」の「フーテン」が好きで、傾倒していたこともあったからだ。
永島氏は、ちょうど、『柔道一直線』からは降りたか降りようとしていた頃だったはずだが、細かなことは記憶にない(ぼくは編集プロを退職後、永島氏の降板で『柔道一直線』を引き継いだ斎藤ゆずる氏に頼まれて、最終回までアシスタントに通った)。
その後、ぼくもなんとか漫画家になり、28歳のとき、所沢に小さな建て売り住宅を買った頃、「COM」の編集長をつとめていた方に頼まれて、飯能までサイン会に出かけたことがある。このとき一緒にサイン会に招かれていたのが、石井いさみ氏と永島氏だった。
サイン会が終わったあと、打ち上げの宴席に招かれたのだが、この席は永島氏の独演会となった。この少し前、いかにもフーテンの元祖らしく(?)、マリファナ吸引で逮捕されたことがあったのだが、その逮捕されたときの顛末をおもしろおかしく語ってくれたのだ。
逮捕したのは神奈川県の横須賀署で、同所の留置所に入れられたそうだが、同房にはヤクザの親分がふんぞり返り、牢名主よろしくふんぞり返ったいたのだという。ところが新入りの永島氏の正体を知った親分は、房内の特等席を永島氏に譲り渡し、同房の被疑者たちに、「この方は、有名な漫画家の先生だから、失礼のないように」と命令したのだという。
きょとんとしている永島氏の前で、その親分は、子ども時代に貸本屋に通っては、「刑事」をはじめとする貸本劇画誌を読み、「漫画家残酷物語」も愛読していたことを打ち明けたらしい。貸本屋は、どこの街でも、飲み屋が並ぶような裏通りの片隅にあり、工場や夜の店で働く若者たちが客筋の中心だった。そのヤクザの親分も、そんな場所で青春時代を送ったのではなかろうか。
1960年代前半までのマンガ・劇画……とりわけ貸本劇画は、社会の底辺に根ざした娯楽だった。おそらく、あの時代が、マンガ・劇画にとっても青春時代だったのにちがいない。その後、バブルの時代を頂点に、わが世の春を謳歌したマンガ・劇画も、いまや黄昏の時を迎えている……。
合掌。
(画像は永島氏の作品。「HIGHSPEED」は三洋社刊の貸本店向け短編劇画誌。表紙は川崎のぼる氏。右の2点は同誌に掲載の永島氏の劇画調作品。高校生のとき、永島氏の『漫画家残酷物語』の原画をもらいたくて、東京トップ社から何冊か「刑事」という短編劇画誌を買ったが、永島氏の原画がついてきたものの、富永一朗氏タッチの大人漫画のような作品で、ちょっとガッカリしたものだった/註:当時、版元から直接、劇画本を買うと、原画がオマケについてきた)
投稿者 msugaya : 23:12 | コメント (8) | トラックバック
2005年07月25日
■『仮面ライダー青春譜』第2章 紙の街に生まれて(12)
●マンガ家になりたい!
『マンガ家入門』を読んで、再びマンガに取り組むことになったのだが、以前ほどにはスラスラと描けなくなっていた。本文で解説されていたテクニックの数々に翻弄され、消化しきれずにいたからだ。
中学最後の夏休みは、あっというまに終わり、誰もが高校受験のことで頭がいっぱいになる二学期になった。
教室では志望校やすべり止めに受ける私立高校の話題が飛び交っていたが、ぼくは、ひとりマンガのアイデアを練り、コマ割りを進めていた。
――二学期中にマンガを描き上げ、石森章太郎「先生」のところに送るのだ。「弟子かアシスタントにしてください」という手紙を添えて……。
どうせ、高校にいけないのなら、好きなことを職業にしたかった。マンガを描いて石森章太郎先生のところに送れば、きっと道はひらけるはずだ。ぼくは大まじめに、そう考えていた。
石森先生のところに中途半端な作品を送ったら失礼になる。きちんとストーリーを完結させたものを送るのだ。そのためには、最後までコンテを作ってから作画にとりかかる必要があった。
そんなことよりも、石森先生の弟子になることが最優先の課題だった。高校受験も、すべり止めでしかなくなっていた。
同級生たちが受験勉強にはげんでいる間も、必死にマンガを描きつづけたほくは、冬休みに入ってラストスパートをかけ、年明け早々に、ようやく原稿を完成させた。三二ページのSFマンガだった。
ぼくは完成した原稿と弟子入り志願の手紙、そして、母に書いてもらった弟子入りの同意書を大判の封筒に入れ、祈るような気持ちで近所の郵便局から発送した。
宛先の住所は、東京都新宿区弁天町四十三。宛名は、もちろん石森章太郎先生だ。
毎日、毎日、首を長くして返事を待った。しかし、二週間たっても三週間たっても返事はない。
「やっぱりだめだったんだよ」
一ヶ月ほどが過ぎたとき、母が無情にいった。現実を思い知らせようとしたのにちがいない。
「しかたないから、高校にいくんだね。いまどき、マンガ家だって、高校くらい出てないと、誰も相手にしてくれないよ」
こうして、いやいやながらも高校を受験することになったのだが、担任教師に頼み込んで、近隣の高校のなかで一番近い〈普通高校〉のF高校に志望校を変えてもらうことにした。願書提出締切日の前日のことだった。実は、この時点では、普通高校の〈普通〉が、何を意味するものか知らずにいたのだった。
高校の入試は、何の準備もしていなかったのに、スンナリと合格した。合格したのはいいが、マンガ家への道のりが長くなるような気もして、複雑な気分だった。
そして、ぼくの高校合格は、わが家にとっての一大事にもなっていた。上に五人いる腹ちがいの兄と姉のうち、男三人は父親に反抗して、中学も卒業しないうちに家を飛び出していた。父親の暴力に耐えかねてのことだった。
二十歳以上も年の離れた長兄は、ぼくの学校貯金までおろして博打につぎ込み、母の着物や家財道具もすべて質屋に叩き込んでいた。
それなのにこの長兄は、ぼくの高校の合格発表の日になると、早朝からF高校に出かけ、「この野郎、門を開けろ! 開けねえと、ぶっからすぞ(静岡弁で、ぶんなぐるぞの意味)」
と用務員を大声で脅し、まだ閉じていた門を開けさせたのだという(本人談)。合格発表の掲示板にぼくの名前があるのを確認した長兄は、自転車でわが家まで走ってきて、母に高校合格を報告すると、そのままどこかに走り去っていった。
走っていったのは、近所の商店街だった。長兄は、酒屋のシャッターを叩いて店を開けさせ、「俺の弟がF高校に合格した祝いだから」と、店の前を通る通勤途上の人たちに、ふるまい酒をしたのだという。わが家にとっては、身内から高校に入る者が出ることだけでも、一世一代の大イベントだったのだ。
そして、ぼくは高校生になった。昭和四十一(一九六六)年四月のことである。
投稿者 msugaya : 15:29 | コメント (1) | トラックバック
2005年07月29日
■『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(1)
●高校には入ってみたものの……
「ところで志望校はどこだ?」
高校に入った直後、担任教師の個人面接があり、いきなりそんな質問を浴びせられた。
「はあ……?」
ぼくは、ポカンと口を開けた。「志望校」の意味がわからなかったのだ。
「志望校には、入ったばかりですけど……」
真面目な顔でそう答えると、とたんに担任教師の顔が朱に染まった。耳までもだ。
「お前は、どういうつもりで、この高校にきたんだ? 志望校といったら大学に決まっているじゃないかっ!」
いまにも湯気を立てんばかりに教師は、真っ赤な顔をさらに赤くして怒鳴りだした。
「大学……?」
ぼくは、キョトンした声を出して担任教師の顔を見つめた。事態をつかめずにいたのだ。
「まだ高校に入ったばかりですし、大学に行くかどうかは、まだ決めてませんが……」
「だったら、お前は何のために、この高校に来たんだ?」
「家から一番近い高校だったからです。本当は工業高校に行きたかったんですが、電車通学だと大変だと思って……」
ぼくは正直に答えた。
「な、な、な、なんて奴だ! お前のような奴のために、大学に行きたいと思ってた生徒がひとり落ちてしまっているんだぞ! そんな生徒に申しわけないと思わないのか?」
申しわけないも何も、ぼくの辞書には最初から大学という言葉がなかったのだからしかたがない。ぼくは、担任教師がなぜこんなに怒るのか、まるで理解できず、ただ途方に暮れるばかりだった。
しかし、この日の面談で、理解できたことがひとつあった。それは〈普通高校〉が大学進学を目的とした高校であるという事実だった。
「お母ちゃんは、普通高校が何をする高校か知ってた?」
帰宅したぼくは、母に訊いた。
「普通の高校だろ?」
母は、あっさりと答えた。母も何もわかっていなかったのだ。
「大学に進学するための高校だってさ」
「それじゃ、お前には関係ないじゃないか」
この子にして、この母ありだった。
こんな調子だったため、個人面接のとき以来、ぼくは担任教師ににらまれつづけることになった。さらに悪いことに、母が担任教師の怒りの炎に油を注ぐことになった。
父兄の個別面談に呼ばれた母は、
「毎日、どれくらい家で勉強していますか?」
という担任教師の質問に、こう答えたのだ。
「うちの子は、小学校のときから家では宿題もしたことがないのが自慢なんです。家に帰ってきたら、マンガを描くばかりで、勉強してる姿なんて見たこともありません。中学までは面倒をみるけれど、高校から先は、自分の道は自分で決めるという約束になってましたから、これからのことは本人にまかせています」
その母に、ぼくは、こんな宣言をしていた。
「F高校の生徒はみんな、高校では勉強するけれど、大学に入ってから思いきり遊ぶといってる。ぼくは、大学に行く気はないから、高校で遊ぶことにするからね。どうせ高卒という学歴のためだけに行くんだし……」
母は、この宣言の内容まで、担任教師に告げてしまったのだ。
母の言葉に担任教師はポカンと口を開けていたらしい。ぼくたち親子は、担任教師の常識の埒外にいただろう。
しかもまずいことに、担任は英語の教師だった。ぼくは英語が苦手――というよりも大嫌いだったのだ。
高校に入って最初の中間試験の英語のテストでは、リーダー、グラマーともに百点満点で十七点ずつ。担任教師が担当するリーダーの答案用紙には、点数の横に、
「マンガばかり描いているから、こんな点を取るんだ!」
という文字が、真っ赤なインクで書き込まれていた。
「菅谷くん、マンガ描いてるんだって?」
クラスメイトのひとりが、いきなり声をかけてきたのは、地理の授業が終わったあとのことだった。
中間試験の地理のテストに、「岩手県の曲がり家を図示せよ」という問題が出たのだが、ぼくは、曲がり家の窓から顔を出した馬が、ヒヒヒーンといななくマンガチックな絵を描いていた。現代の曲がり家らしく、屋根にはテレビアンテナもつけたりもして、マンガそのものの絵を描いたのだ。
地理の教師は、「こんな絵を描いた生徒がいる」と、クラス全員の前で、ぼくの答案をかざして見せた。「絵としては正しいが、ふざけすぎているからマイナス五点にした。これがなければ百点だったんだが」と、のたまわったのである。おかげで、地理のテストは九十五点になっていた。
地理の教師は、「これが百点の解答だ」と、もう一枚の答案用紙を見せた。その解答用紙に描かれていた曲がり家の絵は、まるで美術の教科書のお手本のように、きちんとした三点透視法で描かれていた。
ぼくに声をかけてきたのは、その答案の主で、名前を小西といった。
「ぼくもマンガ描いてるんだ」
突然の告白にぼくは、びっくりした。
富士山麓一帯の秀才と呼ばれていた生徒が集まる高校に、マンガを描いている生徒がいるとは考えてもいなかったのだ。
しかも、この小西という同級生が、十年ほど後に、ぼくを自動車レースマンガを描くきっかけを与えることになろうと、もちろん夢にも思っていなかった。
「へぇ、ほかにもマンガを描いてる生徒がいるなんて……」
ぼくは、その小西というクラスメイトの出現に驚いた。しかも、クラブも同じ物理部に入っていたが、彼とは部室で出くわしたことがない。物理部や化学部には、とりあえず在籍だけする幽霊部員が多かった。小西も、その幽霊部員のひとりだったのだ。
小西も大学受験を目指してこの高校にやってきていた。マンガは単なる趣味だったはずだ。それがその高校においては当り前なのであって、高校生活をマンガ家への助走期間としようと考えるぼくの方が異端だったのだ。
ぼくは、高校に入ると早々に、
〈1〉家で学校の勉強は一切しない。
〈2〉マンガ家になるために東京に出ていくための資金は自分で稼ぐ。
という約束を母親と交わしていた。
中学生までは親が面倒を見るが、高校になったら自分で進路を決めろ、と日頃からいっていた母は、こんなことを息子に宣言されても、ダメだとはいえなかった。子供に理解があるのだというポーズをつくってはいたが、日々の生活に追われるばかりで、それは、息子に充分なことをしてやれないという負い目の裏返しでもあったのだ。
とはいえ息子のぼくは、親が面倒をみてくれるのは中学生まで――という言葉が、いつしか脳裡に刷り込まれていたらしく、高校生になったら自立するのは当然のことと考えていた。
高校では、クラブ活動の籍を物理部におきながら、水泳部にも入部した。身体を鍛えるのが目的だった。もちろんマンガ家になるための修行(?)の一環である。売れっ子マンガ家の過酷な生活ぶりは、マンガ雑誌や「マンガ家入門」にたっぷりと書かれていた。
富士山南麓の温暖な気候のおかげで、F高校の水泳部は、五月にはプールの水を入れ替え、練習をはじめていた。
最初に一五〇〇メートルを泳ぎ、次に八〇〇メートルを二本、四〇〇メートルを四本、二〇〇メートルを八本……と、最後の五〇メートルのダッシュまで含めると、一日に八〇〇〇メートルから一万メートルは泳ぐ。こんなトレーニングは、生まれてはじめてだった。おかげで、胸の筋肉がもりもりとついてきた。
水泳の練習が終わるのは夕方六時過ぎ。あわてて家に帰って夕食をすませると、すぐにマンガを描く時間になる。
マンガを描かない夜は、たいてい映画に出かけていた。母の勤務先からもらった映画館の招待券があったからだ。
こうして水泳とマンガで明け暮れた一学期が終わろうとする頃、いきなり担任の教師から呼び出しを受けた。英語の点数が悪いからと、特別補習を命じられてしまったのだ。
中間、期末の成績の悪かった五十人ほどの生徒が、一学期の終わりから夏休みの前半まで、朝七時半から開始される特別補習を受けさせられハメになったのだ。早起きが苦手なぼくは、以後、赤点にならない程度の点数はキープするよう心がけることにした。
夏休みには、上京資金をつくるアルバイトもスタートした。もちろんマンガ家になるための上京である。ぼくの通っていた高校では、受験勉強のさまたげになるからと、アルバイトが禁止されていたが、そんなことは気にしていなかった。もちろん、大学受験の予定がなかったからだ。
高校在学中、暇さえあればアルバイトに精を出した。肉体労働系のアルバイトが多かったのは、からだにキツい分、稼ぎがいいからだ。土建関係のアルバイトをした帰り、学校のプールに寄って汗を流すのが夏休みの日課になっていた。




